下
「そ、それは、ほ、本当か!?」
テーブルから身を乗り出して篤が詰め寄る。
近い、近すぎる。
俺は篤の肩を押しやり、元の位置に戻した。
「川崎さんから直接聞いた訳じゃないから百パーセントとは言えないけど、大いに脈ありだと俺は思うよ」
「でもそれと川崎さんの嘘がどう繋がるんだよ」
……やってらんねぇ。
俺は救いを求めるように七瀬を見つめたが、当の七瀬は完全無視を決め込んだようだ。
せっせと結び目を増やしている。
薄情なやつめ。
俺は大きく息を吐き、覚悟を決めた。
なんだかむしゃくしゃするけれど、これも鈍い友人の為だ。
「結果から言ってしまえば、シャーペンのことに限らず、川崎さんがお前が居残っている時間に教室にやって来た理由は全て嘘だ。美術の教科書を取りに来たのも、友達を待っているっていうのも、みんなね」
「何だと!」
到底信じられない、と言った表情で篤は俺を見ている。
俺にはお前のその鈍さが信じられないんだけどね。
「まず、美術の教科書。川崎さんは真面目で通っている人だから、基本的に置き本はしない可能性が高い。予習復習の為に主要教科の教科書は全て持って帰っているんじゃないかな。まぁ、これは推測の域を出ない話なんだけど、充分あり得ることだと思う。でも、選択科目の美術の教科書。これはどうだろう。なぁ篤、お前なら持って帰るか? 」
「いや。持って帰ったところで開くこともないだろうし、荷物になるだけだから俺なら持って帰らないな」
神妙な顔で答える篤に満足して俺は頷いた。
「だろうな。授業は実技が主だし、期末テストも終わったばかりだ。ただでさえ、重たい鞄の中に家で使うことのない教科書を加えるだろうか。篤の言うように、多分、答えは否だ。いくら真面目な人でも差し迫って必要のない教科書を持ち帰ったりしないだろうからね。それにこれはシャーペンにも言えることなんだけど、わざわざ教室に戻ってまで使う予定のない美術の教科書を取りに行くのはあまり自然なことじゃない。つまり川崎さんは、わざと置いていた美術の教科書を忘れ物だと言って取りに戻ったんだ」
「わざと……」
「うん。おそらくね。それにまだ続きがある。次に、友達を待っている、と言う口実だね。これは特に付け加える点はない。お前が帰る時に窓から一人校門を出ていく川崎さんの姿を見ているからね。それを気にしなかったお前もある意味すごいよね。普通、校内の友達を待っていたなら所用が終わった時点で教室で待ち合わせるなり、それこそ校門付近で落ち合ったりするだろう。でも、川崎さんは一人で帰って行った。それが答えだ。
他校の友達、と言う線もなくはないけど、他校の友達なら一緒に帰るのではなくどこか出掛けると考えた方が妥当だろう。もちろん、川崎さんにだって他校の友達だっているだろうけど、陽が落ちるのが早いこの時期に、しかも平日に他校の友達と出掛けるなら、移動距離を考えても中間地点で待ち合わせる方がいいんじゃないかな。それにお前が会議を終えて教室にいるとなると、軽く十七時は回っていただろうし、それから三十分読書していたとなると、十八時近くになる。外は真っ暗だ。他校の友達と待ち合わせそれから出掛ける、と言うのは真面目な川崎さんの生活態度を考慮すると、いささか引っ掛かる所が多いんだ。彼女は文化祭の時も門限で随分焦っていたからね」
ふうっと息をつく。俺は残り少ないココアを飲み干した。
七瀬は結び目を作る手を止めない。
はいはい、最後まで言いますよ。
俺は投げやりな気持ちで先を続けた。
「さて、ラストだ。なぜ、川崎さんは多田のシャーペンを自分のだと言って持ち帰ったのか」
篤がごくりと喉を鳴らした。
「……その前にいくつかの小さな謎を解いていこう。こうなったらとことんだ。
まず、お前がなぜ川崎さんが校内にいると確信したか、と言う点を考えてみよう。川崎さんの鞄が教室にあったとは考えにくい。それなら、多田は最後に戸締まりをしたのがお前だとは思わないからね。これは先程の多田のシャーペンがなぜ川崎さんの机にあったのか、と言う理由に関連している。
そう、あの時多田はとても急いでいた。そして多田自身が言うように、多田には少しガサツな部分があった。例えば、椅子を仕舞わずに帰ってしまう、と言うようなね。つまり、川崎さんの椅子は多田が立ち上がった時のまま放置されていた。椅子は引かれたままだったんだ。もちろん椅子を仕舞わずに帰る奴なんていくらでもいるだろう。でも川崎さんはそんなことはしない。お前はそこに違和感を感じていた。だから川崎さんが校内にいると確信したんだ。
まぁ、これは本筋には関係ないことだし、結局は多田の仕業なんだけど」
「……なるほど、確かに言われてみればそうだな」
うんうん、と篤が大きく頷く。
「あと、もう一つ。川崎さんはどこでお前の居残り日を知ったのか。風紀委員でもない限り毎週火曜の定例会議なんて誰も気にも掛けないだろう。正しくは風紀委員に興味の無い人に限っては、だけどね。俺のクラスでもそうだけど、毎週水曜日のSHRに風紀委員から定例会議の報告がある。よそ見なんかしない彼女はもちろん各クラスで行われている風紀委員の報告をちゃんと聞いていただろう。ちゃんと聞いてさえいれば、毎週火曜に風紀委員の定例会議があることなんて、分かりきったことだ。
さぁ、ここからが肝心だ。きちんと風紀委員の報告を聞いて定例会議の存在を知っていた彼女はほんの僅かな期待を込めて、火曜日の放課後教室を覗いてみた。すると期待通りそこにはお前がいたんだ。随分焦っただろうな。何せ教室に来た理由そのものであるお前に怪しまれちゃたまらんからな。そこで彼女が咄嗟に考えた苦肉の策が置きっぱなしの美術の教科書を忘れ物だと言って、尤もらしく理由を仕立てることだった。
どうにか無事切り抜けた川崎さんは、次はあらかじめ口実を用意することにした。友達を待つ、と言う口実をね。帰る姿をお前に見られたのは思わぬ誤算だろう。でも川崎さんはそんなことを知る由もないし、肝心のお前が気にもしていなかった。
お前が想いを募らせていたように、川崎さんもこの淡い交流に密かに胸を踊らせていた。そして意を決した彼女は今日行動に移すことにしたんだ。意気込んで教室に辿りついた川崎さんは鍵の掛けられた後ろのドアに手を掛けた。川崎さんの机は前方のドアから入ってすぐなのにも関わらず、だ。後ろのドアから入った方が目当ての人物にスムーズに辿り着けることを彼女は知っていたからね。まぁ、無意識に考えたことだろうけれど。だが、残念ながらさっきも言ったように後ろのドアには鍵が掛かっていた。勢いが削がれただろうね。一瞬にして決意が揺らいだのかもしれない。告白って言うのは勢いとタイミングが必要だからね」
「告白って……俺に?川崎さんが?」
口をあんぐり開けた篤はとんだバカ面だ。
「お前しか教室にいないんだから、まぁそうだろうな。
とにかく、勢いを削がれた川崎さんは非常に焦った。告白しようと意気込んできたから、口実なんて考えてもいない。どうしようか、と思いあぐねている時に目に飛び込んだのがーー」
「多田の忘れたシャーペン……」
「良くできました。お前は川崎さんのことをちょっぴり抜けてると思っているけど、余程特別な理由が無い限りシャーペンなんてわざわざ教室に戻ってまで取りに行くような忘れ物じゃない。
あ、多田は別だよ。あいつには知っての通り尤もな理由があるからね。多分、川崎さんもさすがにこの口実は随分なこじつけだと自分でも思っているんじゃないかな。それに咄嗟の勢いとは言え、他人のシャーペンを持ち帰ってしまったしね。でも、女の子を、ましてや好きな子を思い悩ますのは、感心しないな。さて、後はお前の行動次第だ」
「俺は……俺は、明日川崎さんに告白する!絶対に、だ」
「すっきりした気持ちで告白に挑めるようで何よりだよ」
俺がそう言うと、篤はポッと顔を赤らめた。
ほんと、全然可愛くないからやめてほしい。
「お前達のような頼りになる友人を持って俺は幸運だよ。ここは是非奢らせてくれ!」
「当たり前よ」
すかさず七瀬が言う。その手元には結び目をこれでもかと連ねた、ストローの袋が握られていた。
すっかり頭がお花畑の篤と別れ、俺達は帰路につく。
キャメル色のダッフルコートに赤いマフラーをぐるぐると巻いた七瀬が睨むように前を見つめていた。
「奢りと言えどやってらんないわ。友達の惚気話なんてうんざりよ。もう二度と聞いてやんない」
白い息と共に、辛辣な言葉を吐き出す。
「……幼稚園の頃、七瀬が親戚から預かった柴犬が七瀬より先に俺になついた時、七瀬はリードにたくさん結び目を作った。俺は幼心に若干引いたね。次は……確か小六だったかな。七瀬の大好きな従兄のお兄さんが結婚した時、ドレスの襟元のリボンを結び目だらけにしてたよね。ほんと難儀な質だよね、七瀬も」
全く。世話のやける幼馴染みだ。今も、昔も。
「何が言いたいの?」
「別に。<友達>だなんて嘘が苦しくないのか疑問に思っているなんて、嘘でも言えないよ」
俺はわざとおどけて言ってみせた。
「馬鹿ね、言ったも同然じゃない。……それに関してはノーコメント。私だって今日初めてはっきりと向き合った気持ちだもの。ほんとイライラするし、篤は馬鹿だし気分はサイテーよ。」
眉間に皺を寄せながら七瀬は言葉を連ね、そして小さく息を吐き肩を落とした。
「……私、篤に何も言うつもりはないわ。でも……それでも私達、丸っきり全て元のようにとはいかないんでしょうね」
今にも雪が降りだしそうな重い雲を見上げ、揺らいだ瞳のまま七瀬が呟く。頬を掠める風がひんやりと冷たい。
俺達は今までいくつもの季節を一緒に過ごしてきた。春も夏も秋も冬も。でもそれは「これから」の保証にはならない。
気付けば俺達の家はもうすぐそこに見えている。時は流れる。今この瞬間も。
「それにしても、徹があんなにも観察眼に優れているとは思わなかったわ。幼馴染みと言えど、まだまだ知らない面もあるのね」
「七瀬が言うと嫌味にしか聞こえないな」
そう言って顔を見合せ笑い合う。
「私の癖を事細かに覚えているなんて、あんた私に気があるんじゃない?」
からかうような目線を七瀬が寄越す。
「……あるかもね」
俺は剥き出しの耳を赤らめ押し黙ってしまった幼馴染みに微笑んでみせた後、自宅へと向かった。
俺の悪い予感は滅多に外れない。
きっと俺達はもう元には戻れないんだろう。
でも、こうも思うんだ。
ぴくりとも動く気配のない幼馴染みの反応も、それほど悪かない、ってね。