消しゴムの御恩
鼻の奥から風邪の匂いがする。
東京に木枯らし1号が吹いた次の日。
ワンルームのベッドで目覚めた私は思っていた。
いや、待て、そんなはずはない。
確かに喉は痛いし、鼻水は止まらないし、いつもより体温は高い気はするし、倦怠感はものすごい。
でも、そんなはずはない。そんなはずは──
「ゲホッゴホゴホゴホッッッ!!!」
そんなことを思っていたら死ぬかと思うような咳が出た。
これは、認めざるを得ないようだ……。
私は覚悟すると枕元の携帯電話を手に取る。
大学の男友達、「三島」にメッセージを打ち込む。
『ごめん。風邪ひいたから今日行けなくなった。』
送信。
メッセージはすぐに読まれた。
『了解。』
シンプルな返信。
じっと見るとパタリと枕元に携帯電話を戻す。
落胆のため息が出る。
映画、楽しみにしてたのになあ……。
三島との出会いは大学入試までさかのぼる。
試験会場で自分の席に座って腕時計やシャーペン、鉛筆、消しゴムを机の上に並べていると横の人の様子がおかしいことに気付いた。
顔面蒼白とはこのことを言うのだろうと思った。
私と同じように机の上に筆記用具を並べていた手が止まり、筆箱の中を呆然と見つめていた。
「……どうしました?」
見て見ぬフリもいかがなものかと思い、声を掛けると勢いよくこちらを見た。
「け、消しゴムを忘れまして……」
涙目でこちらを見ながら消えそうな声でそう言った。
私はチラリと彼の机を見た。
そこには確かに消しゴムの姿がなかった。
ああ、それはあの顔になるだろうと思った。
自分がもし、その状態になったらと考えると絶望でしかない。
私は少し考えると筆箱から携帯ハサミを取り出した。
机の上に並べた消しゴムを手に取ると半分に切る。
そして、片方を彼に渡した。
「良ければ、どうぞ」
「え、ありがとうございます!」
そう言って三島は両手でうやうやしく消しゴムを受け取ると深々と頭を下げた。
「この御恩は一生忘れません!」
「ふ、大げさな……」
一生の内で聞くことがないだろう台詞を言われ、思わず笑ってしまった。
私は持ってきた消しゴムが新品のもので良かったと思った。
おかげでたくさん分け合える。
「お互い頑張りましょうね」
そう言うと三島は「はい!」と力強く頷いた。
それから、見事に大学に合格し、次に三島と再会したのは入学式の時だった。
着慣れないリクルートスーツに身を包み、「さて、どこに座ろうか」と考えていると後ろから「あ!」と声がした。
「?」
振り返るとそこには満面の笑顔の三島がスーツ姿で立っていた。
「消しゴムの御方! あの時はありがとうございました!」
深々と頭を下げられ、私は「ああ」と思った。
「合格したんですね。良かったです」
「いやいや、全てあなたのおかげです! この御恩は一生忘れません!」
まさかの人生二度目のその台詞に私はまた笑ってしまったのだった。
さて、それをきっかけにして私達は話すようになった。
敬語が取れ、タメ口になるまでにはそんなに時間は掛からなかった。
好きな脚本家が同じで、その人の歴代のドラマのことで大いに盛り上がり意気投合。
三島は私のことを少しの間、消しゴムの御方と呼んでいたが、「恥ずかしいからやめろ」と言うと苗字呼びの皆川へと変わった。
そして、今日はその脚本家の初めての映画作品を観に行く予定だった。
予定だった、のだ。
楽しみにしていた。
楽しみにしていた、のだ。
映画に行くのを。
なんなら「三島」と映画に行くのを!
なんで、こんなことに〜!
ベッドの上で身悶えるがそんなことをしたからと言って体調が良くなるわけではない。
むしろ逆に熱が上がった気がする。
仕方ない、寝るか。
病院に行く気力は今の私にはない。
チケット、1枚無駄になっちゃったなあ……。
三島が予約してくれたキャンセル不可のチケットを思いながら、私は眠りについた。
ピーンポーン。
「……?」
それからどれぐらいの時間が経ったのだろう。
音が聞こえて私は目を開けた。
チャイム? え、我が家の?
のっそりと身体を起こす。
チラリと壁掛け時計を見る。
時刻は12時。
眠りについてから結構、時間が経っていた。
これ、出なきゃダメかな……。
逡巡しているとまたチャイムが鳴った。
ピーンポーン。
…………。
ベッドから抜け出て玄関扉の覗き穴を見る。
そこには──
三島!?
驚きに扉がガタっと鳴る。
「あ〜、ごめん。開けれそうなら開けて欲しいんだけど……」
おずおずとこちらの様子を窺う三島の姿に私はマスクを付けて慌てて鍵を開けた。
「なんで……」
そう言った私の声は自分でも驚くほどに枯れていた。
三島の顔が心配そうに歪む。
「声ひどいな……。起こしてごめんな。看病にと思ったんだけど」
そう言って右手に持った袋を見せる。
「看病って映画……ゴホゴホゴホッ!」
「あ〜、喋んな喋んな。映画? 皆川が風邪で寝込んでんのに行けるわけないだろうが」
当たり前のようにそう言って奥へと進んでいく。
「今日初日だし、また次回にしたらいいだろ。皆川と一緒じゃなきゃ観ても面白くないし」
その言葉に泣きそうになる。
次回、あるんだ。
一緒じゃなきゃ、面白くないんだ。
くそう、病気で弱ってる相手になんてこと言うんだ、この男。
涙目になっている私をしんどいと勘違いしたのだろうか。
「ごめん、寝てていいから」
慌ててベッドに戻される。
袋から出されるスポーツドリンク。
「水分ちゃんと取ってな?」
蓋を開けて差し出される。
優しい……。
受け取ると一口飲む。
うまい。
身体に水分が染み渡っていく感じがする。
「喉痛かったらのど飴も買ってあるから。あと、冷却シートとゼリーと……」
なんだろ、あの袋、魔法の袋かなんかかな。今の私が欲しいものばかり出てくるんだが。
「薬はちゃんと……その様子ならまだ病院行けてないか。え、朝から何も食べてない感じ?」
私はコクコクと頷く。
「そっか。薬飲まなくても食べれそうならちゃんと食べた方がいいだろうしな。一応、レトルトのおかゆも買ってきたから温めるか?」
おいおい、至れり尽くせりだな。
お腹が空いていないわけではない。ただ、作る気力がないだけである。
コクコクと激しく頷くと三島は「ふ」と笑った。
「了解。本当は俺が作れたらカッコ良かったんだけどな。俺、卵酒くらいしか作れないから」
そう言ってレトルトおかゆを持って台所に向かおうとする三島。その服の裾を私の手がグッと引いた。
「え?」
驚いたようにこちらを見る。
私は顔で語る。
卵酒? 卵酒は作れるって言った?
「あ、欲しい?」
ブンブンと頷く。
「さっきより激しいじゃねえか。大したものじゃないぞ。昔、ばあちゃんに教わったもので、俺の家では風邪ひくとそれだったから……」
おばあちゃん直伝の卵酒?
絶対おいしいやつ!
ますますきらめく私の瞳に三島は苦笑して歩き出す。
「台所見るぞ。卵は……あるな。砂糖も……あるな。日本酒はあるな」
今、日本酒だけ全く悩まなかったな、あいつ。
いや、あるけども? 常備してるけども?
悪かったな、酒豪で。
「道具もあるし出来そうだな。皆川、ちょっと借りるな」
かき混ぜる音。火をつける音。
三島の調理する音がする。
私はニコニコしながらその音を聞く。
なんで風邪なんてひいちゃったんだろうと思ったけど、こんなご褒美があるとは。
木枯らし1号ありがとう。季節の変わり目ありがとうって感じだなあ。
そんなことを思っているとベッドの横の袋が目に入る。
三島が買って来てくれたものたち。
本当に色んなもの買ってきてくれたんだなあ、後でお金払わないと。
ごそごそと中を探っていると一枚のレシートが入っていた。
お。
手に取り眺める。
それはここの近所のスーパーで買ったものだった。そこで私の目は止まってしまう。
…………。
「出来たぞ〜」
声がして、三島がマグカップを持って来る。横に座ると両手で差し出す。
「熱いからゆっくりな。あれ、何見てんだ」
私はレシートを見せる。
「あ、ごめん、袋に入ってたか。金払うとか絶対言うなよ。俺が勝手に買ったんだから」
男前だな、お前。いや、その気持ちは大変嬉しいが、私が気になったのはここである。
指差したのは購入時間。
そこには10時と記入されていた。
「?」
三島がキョトンとした顔をする。
私は壁掛け時計を指差す。
時刻は12時15分。
三島は「あ」と言う顔をする。
「ちが、あの、勝手に行っていいもんかなとか、逆に迷惑じゃないかなとか、でも、熱どんくらいなんだろうとか、咳ひどくないかなとか、もしかして倒れてたらどうしようとか色んなことぐだぐだ考えちゃって!」
顔を真っ赤にして言い訳する三島。
私は差し出されたマグカップを受け取る。
ふつふつと泡が浮かぶ卵色のやさしい飲み物。
ゆっくりと飲む。
甘くて、ほっとして、あったかい。
「あ〜、もう〜、俺、カッコ悪……」
うなだれる三島に私は言う。
「三島、好きだよ」
「だから、喉痛いんだから喋るなって……え」
私はにっこり笑う。
「好きだよ、三島」
「え……」
三島の顔が再びみるみる赤くなる。
「ゴホゴホゴホッッッ!!!」
私は死にそうな咳が出る。
「お前さあ、もっとタイミングってもんがあるだろうが……」
呆れたように私の背中をさする三島。
確かにこんな時に言うことではなかったかもしれない。
でも、仕方ないじゃないか。
近所のスーパーで私のための完璧な看病グッズを買って、私のことを考えて悩みまくる三島を想像したら愛しくてたまらなくなってしまったのだから。
さて、あなたのお返事は?
涙目で見つめると三島はグッと息を呑む。
「好きに決まってんだろうが。入試の時からずっと。入学式で再会できてどんだけ嬉しかったと思ってんだ」
なんだ、あの時から始まっていたのか。
私は「ふ」と笑いながらまた卵酒を飲む。
それにしてもおばあちゃんの卵酒はうますぎる。
これって今後も作ってくれるんだろうか。
本人にとってはカッコ悪い告白のきっかけとガラガラ声の告白とおばあちゃんの卵酒。
大切な日のはずなのになんともカッコつかない。
でも、それもまた私達らしいかとも思ったりする。
たぶんあの時、三島じゃなくても私は自分の消しゴムを半分差し出しただろう。
でも、それが三島で良かったと思う私もいる。
消しゴムの御恩なんてとっくに返してもらっている。




