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「君を知らない」と言ったあなたが、記憶を失っても二度私に惹かれたので、もう運命だと信じることにします——1944年、野戦病院で再会した幼馴染との約束の物語

作者: uta
掲載日:2026/06/01

戦争が終わったら、迎えに行く。


その約束だけを胸に、私は三年間、待ち続けた。


届かなくなった手紙。消息不明の報せ。それでも信じていた。あの人は必ず帰ってくる。必ず、私を迎えに来てくれる。


だから私は、この地獄のような戦場に来た。


「お国のため」なんて、嘘。


本当は——あなたに会いたかっただけ。




§




一九四四年、夏。


南方の島にある野戦病院は、今日も血と消毒液の匂いに満ちていた。


「白石、手が止まっているぞ」


山本婦長の鋭い声が飛んできて、私はハッと我に返った。


目の前には、腹部に深い傷を負った若い兵士。まだ二十歳にもなっていないだろう。土気色の顔で、うわごとのように「かあちゃん」と繰り返している。


——また、助からない顔だ。


そう分かっていても、手を止めるわけにはいかない。ガーゼを当て、包帯を巻き、できることをする。それが従軍看護婦の務め。お国のために命を捧げた兵隊さんたちを、最期まで看取る。


それが私の——。


「……っ」


兵士の手が、私の手首を掴んだ。驚くほど弱い力で。


「姉ちゃん……俺、国に帰れる……?」


その目が、私を見ていなかった。きっと故郷の誰かを見ている。母親か、恋人か、幼い妹か。


私は笑った。笑うしかなかった。


「ええ。帰れますよ。だから安心して」


嘘だ。


この人は帰れない。私が看てきた何百人もの兵士と同じように、この南方の島で、名前も知られないまま死んでいく。


「……よかっ、た……」


兵士の手から、力が抜けた。


また一人。


今日だけで、何人目だろう。昨日は? 一昨日は? もう数えることすらできない。私の手の中で、どれだけの命が消えていったのか。


——お国のため。


その言葉が、最近は砂を噛むように虚しい。


「白石」


山本婦長が、そっと私の肩に手を置いた。厳しい人だ。でも、その手は温かかった。


「次の患者が運ばれてくる。重傷者だ。準備しなさい」


「……はい」


立ち上がる。膝が震えていることに、自分で気づかないふりをする。


手が、また少し荒れた。消毒液で、爪の間まで白くひび割れている。昔はもっと綺麗な手だったのに。


——あの人に、触れた手だったのに。


ふと、左手首の火傷の跡に目が止まる。もう十五年以上前の傷。幼い頃、囲炉裏に落ちかけた蒼一郎を庇って、私が代わりに負った。


あの時、蒼一郎は泣いていた。「千鶴が怪我をした」と、自分のことのように泣いていた。


——馬鹿みたい、私。


あの人のことなんて、もう考えても仕方ないのに。


「戦争が終わったら、迎えに行く」


そう言って出征していったのは、もう三年も前のこと。手紙は最初の半年で途絶えた。生きているのか死んでいるのかも分からない。橘家に問い合わせる勇気もない。


そもそも私は、没落士族の娘。向こうは華族。身分が違う。婚約者だっている。東条家の令嬢と、ちゃんと決まった許嫁が。


私との約束なんて、あの人にとっては——。


「重傷者、入りますっ!」


担架を担いだ衛生兵が、病棟に駆け込んできた。


私は反射的に駆け寄った。何も考えない。考えたら動けなくなる。ただ、目の前の命を繋ぐことだけを考える。


「陸軍中尉、爆撃を受けて——意識不明、右目の上と腹部に裂傷、出血多量——」


衛生兵の報告を聞きながら、私は担架の上の負傷者に目を向けた。


血にまみれた軍服。

切れ長の目。

短く整えられた黒髪。

端正な、けれど苦悶に歪んだ顔。


——嘘。


世界が、止まった気がした。


「橘中尉っ、しっかりしてくださいっ」


衛生兵が名前を呼んでいる。


橘。


橘蒼一郎。


間違いない。何年経っても、どれだけ血に汚れていても、この人を見間違えるはずがない。


私の、初恋の人。


「……っ、嘘」


声にならない声が漏れた。足が動かない。手が震える。


「なんで、あなたが……こんなところに……」


違う、動いて。今は看護婦として——。


「白石っ! 何をしている!」


山本婦長の怒声が、私を現実に引き戻した。


「……っ、はいっ!」


走った。担架に駆け寄った。


蒼一郎の傷口を確認する。腹部の裂傷は深いが、内臓には達していない。右目の上の傷は縫合が必要だが、命に別状はない。出血は多いが、まだ間に合う。


——生きている。


この人は、生きている。


「止血します。柴田先生を呼んでください」


声が、不思議と落ち着いていた。


手が震えているのに、処置は正確にできた。何百回と繰り返してきた動作だから。体が覚えている。


ガーゼを当てる。包帯を巻く。血を拭う。


蒼一郎の顔が、少しずつ見えてくる。


三年前より、少し痩せた。頬がこけて、眉間に深い皺が刻まれている。戦場で何を見てきたのだろう。どれだけの地獄を歩いてきたのだろう。


——でも、生きている。


涙が、勝手に溢れそうになった。


だめ。泣いたらだめ。私は看護婦。この人は患者。それ以上でも以下でもない。


その時、蒼一郎の瞼がかすかに動いた。


「……っ」


薄く開いた黒い瞳が、私を見た。


焦点の合わない、虚ろな目。けれど確かに、私を捉えている。


——お願い。思い出して。私のこと、覚えていて。


祈るような気持ちで、私は蒼一郎を見つめた。


でも。


「……誰だ」


その言葉は、あまりにも冷たかった。


「君は……誰だ。なぜ俺を見て、そんな顔をする」


私を見る目に、何の感情も浮かんでいなかった。幼馴染を見る目じゃない。約束を交わした相手を見る目じゃない。


ただの、他人を見る目。


「……私は」


声が震えた。喉が詰まった。


「白石……白石千鶴、です。担当の、看護婦です」


そう答えるのが精一杯だった。


「……そうか」


蒼一郎は、それだけ言うと目を閉じた。


気を失ったのか、それとも興味を失っただけなのか。分からない。分かりたくない。


「白石っ!何をぼんやりしている!止血を続けなさい!」


婦長の声で、私ははっと我に返った。


「は、はいっ……!」


手を動かす。止血を続ける。


——覚えていない。


この人は、私のことを覚えていない。


柴田先生が駆けつけてきた。丸眼鏡の奥の優しい目が、私を見て何かを察したようだった。


「腹部裂傷、出血多量……意識混濁。橘中尉、聞こえますか?」


先生が蒼一郎に声をかける。蒼一郎の目が、再び薄く開いた。


「……ああ」


「名前は言えますか?所属と階級は?」


「橘蒼一郎……陸軍、中尉」


「結構。では、出征前のことは覚えていますか?故郷のこと、家族のこと」


沈黙が流れた。


蒼一郎の眉間に、深い皺が刻まれる。何かを思い出そうとしている。必死に記憶を手繰り寄せようとしている。


でも——。


「……分からない。靄がかかったように、何も」


「……っ」


私は、息を呑んだ。


「白石さん、顔色が悪いよ。少し外の空気を吸っておいで」


柴田先生が、穏やかに言った。


「いえ、私は大丈夫です。患者さんの処置を——」


「それは命令。僕は医者だからね、患者の容態を見る目はあるつもりだよ」


先生の目が、真剣だった。誤魔化しは効かない、と言っている。


「……行きな、白石。あとは私たちがやる」


婦長も、珍しく優しい声で言った。


私は、何も言い返せなかった。


「……はい」


立ち上がろうとした、その時。


「待て」


蒼一郎の声が、私を引き止めた。


「……はい?」


振り返ると、蒼一郎の黒い瞳が、まっすぐに私を見ていた。


「君の名前……白石、と言ったな」


「ええ……白石千鶴、です」


「千鶴……」


——っ。


心臓が、跳ねた。


私の名前を、呼んだ。昔と同じ声で。同じイントネーションで。


思い出したの? 覚えているの? 私のこと——。


「……いや、何でもない。すまない、行ってくれ」


蒼一郎は、そう言って目を逸らした。


何も、思い出していない。


ただ名前を反復しただけ。それだけ。


「……失礼、します」


私は病棟を出た。


背中に、誰かの視線を感じた。でも、振り返れなかった。




§




病棟を出て、裏手に回って、誰もいない物陰に座り込んだ。


夕日が、赤く燃えていた。遠くで砲声が聞こえる。また戦闘が始まったのだろう。この島も、いつまで持つか分からない。


「……馬鹿みたい、私」


独り言が、唇から零れた。


「覚えていないなら……それで、いいじゃない。今更、何を期待しているの」


誰に言っているのか分からない。自分自身に言い聞かせているのか、それとも——。


「『戦争が終わったら、迎えに行く』……なんて」


あの日の蒼一郎の声が、耳の奥で響いている。


出征前夜。橘家の庭で、満開の桜の下で。


蒼一郎は、私の手を取った。


「待っていてくれ、千鶴。必ず帰る。必ず、迎えに行く」


「でも、東条様との婚約が……」


「あんなものは、家同士の都合だ。俺が選ぶのは——」


蒼一郎の指が、私の頬に触れた。


「お前だけだ」


——ああ、私は、どれだけその言葉に縋ってきただろう。


「そんな約束、最初から——なかったことに、すれば……っ」


涙が、溢れた。


止められない。何年も我慢してきた涙が、堰を切ったように流れ出す。


「……っ、だめ、泣かない。私は看護婦。あの人は患者。それだけ」


言い聞かせる。自分に言い聞かせる。


「……それだけ、なのに」


膝を抱えて、子供みたいに泣いた。


誰にも見られないように。看護婦の白石千鶴ではなく、ただの——あなたを待っていた女として。


「どうして、こんなに……苦しいの……」


どれくらいそうしていただろう。


空が暗くなり始めた頃、私は立ち上がった。


涙を拭う。制服の埃を払う。


もう泣かない。


私は看護婦。あの人は患者。それだけ。


昔の約束なんて、最初からなかったことにすればいい。


——そう決めたはずなのに。


胸の奥が、どうしようもなく痛かった。




§




翌日から、私は蒼一郎の担当看護婦として働いた。


努めて事務的に。感情を殺して。「橘中尉」と呼び、敬語で話し、必要以上に目を合わせない。


「橘中尉、検温の時間です」


「……ああ」


蒼一郎は、いつも短く答えるだけだった。


記憶喪失——柴田先生はそう診断した。脳の損傷ではなく、心因性のもの。戦場で何かを見て、何かを経験して、心が壊れる前に記憶を封じ込めた。


自分の名前は覚えている。軍人であること、橘家の嫡男であることも分かっている。でも、それ以外の「個人的な記憶」がすっぽり抜け落ちている。


幼馴染のことも。

約束のことも。

私のことも。


全部、忘れてしまった。


「……」


体温計を差し出す。蒼一郎はおとなしく受け取り、脇に挟んだ。


沈黙が流れる。


気まずい。こんなに気まずいと思ったことはない。昔は、二人でいて沈黙が苦しいなんてことはなかった。何時間でも一緒にいられた。話していても、黙っていても、ただそばにいるだけで——。


「……君」


蒼一郎が、唐突に口を開いた。


「なんでしょう」


「俺は君を、知っているか」


心臓が、跳ねた。


「……どういう、意味ですか」


声が震えないように、必死に平静を装う。


蒼一郎は、真っ直ぐに私を見ていた。その目に、困惑と——何か別の感情が混じっている。


「分からない。だが……君を見ていると、胸が妙に苦しくなる」


「それは——」


「怪我のせいではない。もっと、別の……」


蒼一郎がこめかみを押さえた。思い出そうとしている。無理に記憶を辿ろうとしている。


「中尉、無理をなさらないでください」


私は反射的に言った。


「柴田先生も仰っていました。記憶は、自然に戻るのを待つべきだと。焦ると、かえって——」


「君は」


蒼一郎が、私の言葉を遮った。


「俺を、何と呼んでいた」


「……え?」


「あの日。俺が担ぎ込まれた時。君は俺を、名前で呼んだだろう」


息が止まりそうになった。


——聞こえていたの。意識がなかったはずなのに。


「気のせいです」


咄嗟に嘘をついた。


「私は最初から、橘中尉とお呼びしていました」


「そうか……」


蒼一郎は納得していないようだった。でも、それ以上追及してはこなかった。


体温計を回収する。三十六度八分。平熱だ。


「経過は良好です。このまま安静にしていれば、じきに——」


「看護婦さん」


甘い声が、病棟に響いた。


振り返ると、そこには——豪華な着物を纏った女性が立っていた。


結い上げた黒髪に、真珠の髪飾り。切れ長の目。紅を引いた唇。戦時中とは思えない、華やかな装い。


——東条玲子。


蒼一郎の、婚約者。




§




「あら、まあ。蒼一郎様、お目覚めでしたのね」


玲子は優雅に歩み寄り、蒼一郎のベッドの傍らに跪いた。涙を滲ませた目で、蒼一郎を見上げる。


「心配しましたわ。お怪我をされたと聞いて、いてもたってもいられなくて……」


演技だ、と私は思った。


この人の涙は嘘だ。何年も蒼一郎のことなど顧みなかったくせに、今更何を——。


「……君は」


蒼一郎が、怪訝そうに玲子を見た。


「誰だ」


玲子の顔が、一瞬だけ強張った。


でも、すぐに悲しげな表情に変わる。ハンカチで目元を押さえ、震える声で言った。


「ああ……やはり、お医者様の仰った通りなのね。記憶を失くされたと聞いて、信じられませんでしたけれど……」


玲子は蒼一郎の手を取った。白い、労働を知らない柔らかな手で。


「私は東条玲子ですわ。あなたの……婚約者です」


婚約者。


その言葉が、胸に突き刺さった。


知っていた。最初から分かっていた。蒼一郎と私の間には、最初から何もなかったのだと。約束なんて、ただの幻だったのだと。


「……婚約者」


蒼一郎が、玲子を見ている。


当然だ。目の前に美しい女性がいて、その人が婚約者だと言っている。信じない理由がない。


私は一歩後ろに下がった。


「検温は終わりました。ごゆっくり」


「待って」


蒼一郎の声に、足が止まった。


「看護婦……いや、白石」


私の名前を呼んだ。名字だけど、呼ばれたことに変わりはない。


振り返ると、蒼一郎は玲子ではなく、私を見ていた。


「君は、昼食の時間にも来るのか」


「……はい。私が担当ですので」


「そうか」


蒼一郎は、ほんの少しだけ——本当にほんの少しだけ——表情を緩めた。


「なら、待っている」


心臓が、また跳ねた。


だめ。期待してはいけない。この人は何も覚えていない。私のことなんて、ただの看護婦としか——。


「あの、看護婦さん」


玲子の声が、空気を切り裂いた。


「お仕事中でしょう? 私たちにお気遣いなく。さあ、早くお行きになって」


追い払うような言い方だった。


私は黙って頭を下げ、病棟を出た。


背中に、玲子の視線が突き刺さるのを感じた。あの目は知っている。邪魔者を見る目だ。


——分かってる。私なんて、最初からあの人の隣にいる資格なんてない。




§




その日の夕方、私は偶然——いや、運命的に——玲子の本性を知ることになった。


廊下を歩いていた時、物陰から声が聞こえたのだ。


「——だから、早く内地に戻る手配をしてちょうだい」


玲子の声だった。


私は足を止め、息を殺した。


「心配しなくても、僕が手を回しておくよ。君と橘中尉は、来週の輸送船で内地に戻れる」


男の声。将校の軍服を着た——知らない顔の男だった。参謀本部の人間だろうか。


「ありがとう。でも……」


玲子の声が、急に甘くなった。


「あなたも一緒に帰ってくれるんでしょう?」


「ああ、もちろん。君のためなら何でもするさ」


将校の手が、玲子の腰に回された。


玲子は抵抗しなかった。それどころか、妖艶に微笑んで——。


私は、息を呑んだ。


——婚約者。蒼一郎の、婚約者。


その人が、別の男と——。


「じゃあ、また明日の夜に」


「ええ。待ってるわ」


二人は別れた。将校は廊下の向こうへ消え、玲子は——こちらに向かってきた。


逃げられない。私は壁に背をつけ、息を殺した。


玲子が、私の前を通り過ぎようとした時——ふと、足が止まった。


「あら」


玲子が、私を見た。


作り笑いが、すっと消える。そこにあったのは、冷たい、見下すような目だった。


「見ていたの? 看護婦さん」


「……いえ、私は——」


「いいわ。別に隠すつもりもないもの」


玲子は、優雅に髪を払った。


「蒼一郎様との婚約は、ただの政略ですもの。私の家は……まあ、色々あってね。橘家の財産が目当てなのよ。愛情なんて、最初からありはしないわ」


「そんな——」


「何を驚いているの? 華族の結婚なんて、そんなものよ。あなたのような庶民には分からないでしょうけれど」


玲子が、一歩近づいた。


「それとも、何? あなた、蒼一郎様に何か——」


私は、何も言えなかった。


玲子の目が、細くなった。


「ふうん……そう。なるほどね」


何かを悟ったように、玲子は笑った。


「白石千鶴。没落士族の娘。蒼一郎様の幼馴染——でしょう?」


心臓が、凍りついた。


「調べさせていただいたの。蒼一郎様の周りにいる女は、全員ね」


玲子が、私の顎を持ち上げた。長い爪が、肌に食い込む。


「あなた、まさか蒼一郎様と何かあったなんて思っていないわよね? 身分違いの恋なんて、滑稽ですわ」


「……私は」


「分かっているなら、いいの。あなたは『ただの看護婦』。それ以上でも以下でもない。分をわきまえなさい」


玲子は私を突き放し、優雅に去っていった。


残された私は、壁にもたれて立ち尽くしていた。


膝が震えている。唇を噛みすぎて、血の味がする。


——分かってる。そんなこと、言われなくても分かってる。


でも。


蒼一郎が、玲子ではなく私を見ていた。


「待っている」と、私に言った。


それは——何の意味もないことなの?


私は、左手首の火傷跡を握りしめた。


——馬鹿みたい、私。




§




「白石さん」


その日の夜、柴田先生が私を呼び止めた。


「少し、いいかな」


医務室に入ると、先生は丸眼鏡を外して目を擦った。疲れているのだろう。この人だって、毎日何人もの兵士を看取っている。


「橘中尉のことなんだけど」


「……はい」


「彼の記憶喪失は、おそらく心因性のものだ」


「心因性……?」


「つまり、脳の損傷ではなく、心の問題だということ。何か、思い出したくない記憶がある。だから脳が、自分を守るために記憶を封じ込めた」


先生は窓の外を見た。夕暮れの空が、血のように赤い。


「戦場で、何を見たんだろうね。何を、経験したんだろう」


私は何も言えなかった。


「記憶が戻るかどうかは、正直分からない。戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。でも……」


先生が振り返り、私を見た。


「彼は君を見る時だけ、表情が変わるんだ」


「え……?」


「気づいてなかった? 他の看護婦や僕と話す時は、まるで人形みたいに無表情なのに。君が来ると、目が追うんだよ。無意識に」


胸が、苦しくなった。


「それは……ただの偶然です。私が担当だから、顔を覚えただけで」


「そうかな」


先生は、少し笑った。いつもの飄々とした笑顔ではなく、どこか切ない笑顔で。


「僕は医者だからね。人の体だけじゃなく、心も少しは分かるつもりだ。あの人は——記憶がなくても、君のことを覚えているんじゃないかな。頭じゃなくて、心のどこかで」


「先生……」


「まあ、これは僕の勝手な推測だけど」


先生は丸眼鏡をかけ直し、いつもの調子に戻った。


「さて、僕は次の患者を診なきゃ。白石さんも休めるうちに休んでね。死にそうな顔してるよ」


「先生こそ」


「僕? 僕はいつも死にそうな顔だから平気」


冗談を言って、先生は医務室を出て行った。


一人残された私は、窓の外を見た。


——記憶がなくても、心のどこかで覚えている。


先生の言葉が、頭の中で響いていた。


そんなこと、信じていいの? 信じたら、また期待してしまう。期待したら、また傷つく。


——でも。


「待っている」


蒼一郎の声が、耳の奥で蘇った。




§




深夜。


眠れないまま巡回に出た私は、蒼一郎が目を開けているのを見つけた。


他の患者たちは皆、眠っている。遠くで聞こえる砲声も、今夜は静かだ。蝋燭の光だけが、ゆらゆらと二人の影を揺らしている。


「……眠れないのですか、中尉」


「……眠れない」


蒼一郎は起き上がろうとして、痛みに顔を歪めた。


「無理をしないでください」


私は慌てて駆け寄り、枕を直してやった。


近い。こんなに近くで蒼一郎を見るのは、いつぶりだろう。


消毒液と血の匂いに混じって、かすかに——懐かしい匂いがした。昔、一緒に遊んだ頃の。土と草と、日向の匂い。


「白石」


「はい」


「……ここに、いてくれないか」


心臓が、跳ねた。


「少し、話がしたい」


断る理由がなかった。いや、断れなかった。


私は蒼一郎のベッドの傍らに座った。椅子もないので、床に直接。


「何か、思い出しそうになるんだ」


蒼一郎は天井を見上げながら言った。


「夜になると、夢を見る。知らない場所。知らない人。でも、どこか懐かしい」


「……どんな夢ですか」


「女の子が、いる」


私は息を呑んだ。


「小さい、女の子だ。黒い髪を結んでいて……よく泣くくせに、意地っ張りで。俺の後ろをいつもついてきた」


——私だ。それは、私だ。


「その子が、俺に何か言っている。でも、声が聞こえない。顔も、ぼやけて見えない。ただ、手だけは——」


蒼一郎が、私の手を見た。


「左手首に、傷がある」


私は反射的に、左手を隠した。


「……覚えていないのに、なぜその傷のことを夢に見るのか分からない。でも、その傷を見ると——」


蒼一郎のこめかみに、汗が浮いていた。


「胸が、張り裂けそうになる」


「中尉……」


「教えてくれ、白石」


蒼一郎の手が、私の手首を掴んだ。


「君の左手首には、火傷の跡があるだろう。俺は、それを知っている気がする。なぜだ。俺と君は、初対面のはずじゃ——」


「やめてください」


私は手を振り払った。


声が震えていた。隠しきれないほどに。


「あなたは、何も思い出さなくていいんです」


「白石——」


「思い出しても、何も変わりません。あなたには婚約者がいる。東条玲子様という、立派な——」


「あの女は」


蒼一郎の声が、急に低くなった。


「俺の婚約者だと言っていた。だが、俺は——」


蒼一郎が、私を見た。


記憶を失っても変わらない、真っ直ぐな黒い瞳。


「あの女を愛していた記憶がない。いや……愛していた感覚がない。顔を見ても、名前を聞いても、何も感じない」


「それは……記憶を失ったからでしょう」


「違う」


蒼一郎は首を振った。


「俺は分かる。自分の心くらいは。あの女のそばにいても、胸は何も感じない。でも——」


蒼一郎の手が、私の頬に触れた。


「君を見ると、苦しくなる」


息が、止まった。


「君の声を聞くと、安心する。君が来ると、待ちわびていた自分に気づく。これが何なのか、俺には分からない。記憶がないから」


蒼一郎の親指が、私の頬を撫でた。


「でも、一つだけ分かることがある」


「……何、ですか」


「俺は、君を知っている」


涙が、溢れた。


止められなかった。何年も我慢してきた涙が、堰を切ったように流れ出した。


「……っ」


「白石」


「違うんです」


私は蒼一郎の手を握りしめた。


「私は……あなたの幼馴染です。千鶴。白石千鶴。あなたの隣に住んでいた、没落士族の娘」


言ってしまった。


もう隠せなかった。隠す必要なんて、最初からなかったのかもしれない。


「私たちは、小さい頃からずっと一緒だった。あなたは体が弱くて、私がいつも引っ張り回して……囲炉裏に落ちそうになったあなたを庇って、この傷ができた」


左手首を見せた。古い火傷の跡が、蝋燭の光に浮かび上がる。


「あなたは泣いてくれた。『千鶴が怪我をした』って、自分のことみたいに泣いてくれた」


「千鶴……」


蒼一郎が、私の名前を呼んだ。


昔と同じ、優しい声で。


「でも、身分が違った。あなたは華族で、私は没落士族。正式な婚約なんてできなかった。でもあなたは出征前に——」


声が詰まった。


「『戦争が終わったら迎えに行く』って。だから待っていてくれって。それだけを信じて、私は——」


「千鶴」


蒼一郎が、私を抱きしめた。


傷が痛むはずなのに、構わず私を引き寄せて、強く抱きしめた。


「俺は君を知っていた」


蒼一郎の声が、震えていた。


「記憶がなくても、分かっていた。君を見た瞬間から、心が叫んでいた。この人だ、この人を探していた、と」


「蒼一郎……」


「すまない。思い出せなくて、すまない」


「いいの」


私は首を振った。涙で視界がぼやける。


「覚えていなくても、いいの。あなたが生きていてくれただけで——」


「違う」


蒼一郎が、私の肩を掴んで離した。真剣な目で、私を見る。


「覚えていないままでは、だめだ。俺は思い出す。必ず。君との約束を、全部」


「でも——」


「それまで、待っていてくれるか」


また、同じ言葉。


三年前と同じ、約束の言葉。


「……ずるい」


私は、泣きながら笑った。


「そうやってまた、私を待たせるの?」


「すまない」


「謝らないで。だって私——」


胸の奥から、言葉が溢れた。


「最初から、あなたを待つって決めてた。何年でも、何十年でも。たとえあなたが私を忘れても、私だけは忘れないって」


蒼一郎の額が、私の額に触れた。


「千鶴」


「……はい」


「俺は君を知らない。記憶がないから、君との過去を思い出せない」


「……ええ」


「でも」


蒼一郎の唇が、かすかに私の唇に触れた。


一瞬だけ。羽根のように軽く。


「俺は今、君に惹かれている。それだけは、嘘じゃない」


心臓が、壊れるかと思った。


喜びと切なさが混ざり合って、どうしていいか分からなかった。


「……ずるいって、言ったでしょ」


「ああ。俺はずるい男だ」


蒼一郎が、微かに笑った。


昔と同じ、不器用な笑顔。記憶がなくても、変わらない笑顔。


その時——。


「まあ、素敵なお話ですこと」


冷たい声が、闇の中から響いた。




§




私たちは弾かれたように離れた。


病棟の入り口に、玲子が立っていた。


蝋燭の光に照らされた顔は、能面のように無表情だった。でも、目だけが——氷のように冷たく光っていた。


「東条——」


「記憶を失っても、昔の女は忘れないのね。感動的だわ」


玲子が歩み寄ってくる。着物の裾が、床を擦る音が響く。


「でも残念。いくらお二人が愛し合っていても、蒼一郎様は私の婚約者。橘家との婚約は、両家の当主が決めたこと。たかが幼馴染の情なんかで、破談になると思って?」


「玲子——いや、東条」


蒼一郎が、私を庇うように前に出た。


「俺は君との婚約を、破棄したい」


「あら、そんなこと言っていいの?」


玲子が笑った。嘲笑だった。


「記憶を失ったあなたに、何ができるというの? 橘家の当主に何も言えない今のあなたに?」


「……」


「それに——」


玲子の目が、私を射抜いた。


「この女、不埒な看護婦として報告すれば、すぐに追い出せるわ。軍の規律を乱した、ってね。どうする? この女がいなくなってもいいの?」


「やめろ」


蒼一郎の声が、低くなった。


「千鶴に手を出すな」


「千鶴、ですって。呼び捨て。素敵ねえ」


玲子が、私の顎を持ち上げた。長い爪が、肌に食い込む。


「分かったでしょう、白石さん。あなたの『分』をわきまえなさい。身分違いの恋なんて、所詮は夢物語よ」


玲子の唇が、私の耳元に近づいた。


「蒼一郎様は私と内地に帰るの。来週の輸送船でね。あなたは——ここで、一人で死になさい」


背筋が凍った。


玲子は私を突き放し、優雅に踵を返した。


「ああ、そうそう。明日の朝、手続きを済ませるわ。蒼一郎様を連れて帰る準備は、もう整っているの」


足音が遠ざかる。


病棟に、沈黙が落ちた。


「千鶴」


蒼一郎が、私の手を握った。


「行かない。俺は、君を置いて行かない」


「……でも」


「約束しただろう。迎えに行くと」


「覚えていないくせに」


「覚えていなくても、約束は約束だ。俺は——」


蒼一郎のこめかみを、汗が伝った。苦しそうに眉を寄せる。


「思い出す。今すぐにでも——」


「無理しないで」


私は蒼一郎の手を握り返した。


「いいの。私は——」


違う。


良くなんかない。


このまま蒼一郎が玲子に連れて行かれたら、もう二度と会えないかもしれない。この島は、いつ空襲に遭うか分からない。私は——。


——ここで、一人で死ぬの?


そう思った瞬間、何かが弾けた。


「……嫌」


私は呟いた。


「嫌。私、もう——『お国のため』なんかじゃない」


蒼一郎が、驚いたように私を見た。


「私はあなたを守る。あなたを連れ去ろうとする人がいるなら、私が止める。たとえ身分違いでも、婚約者がいても——」


涙が溢れた。でも、今度は悲しみの涙じゃなかった。


「私、あなたを好きなの。ずっと、ずっと好きだった。だから——」


私は立ち上がった。


「待ってて。私、なんとかする」


「千鶴、待て——」


蒼一郎の声を背に、私は病棟を飛び出した。




§




夜の廊下を走る。心臓がうるさい。


——どうする。何ができる。


分からない。でも、このままじゃ嫌だ。黙って運命を受け入れるなんて、もう嫌だ。


山本婦長の部屋の前で、足が止まった。


深夜に起こすのは気が引ける。でも、他に頼れる人がいない。


私は扉を叩いた。


「婦長……起きてください。お願いです」


沈黙。


そして——扉が開いた。


「何事だい、こんな夜中に」


山本婦長は、寝巻き姿だった。でも、目は覚めていた。きっと、最初から眠れていなかったのだろう。


「婦長、お願いがあります」


私は頭を下げた。


「橘中尉を——守らせてください」


婦長は、しばらく私を見つめていた。


そして——。


「入りな」


扉が、大きく開かれた。




§




「それで、全部話してくれるんだね」


山本婦長は、腕を組んで私を見ていた。厳しい目。でも、どこか温かい。


私は全部話した。


蒼一郎との幼馴染の関係。約束。記憶喪失。そして、玲子の正体——別の将校との密会、政略結婚の真実、私への脅迫。


話し終わると、婦長は長いため息をついた。


「……厄介なことになったねえ」


「すみません。でも私、もう——」


「黙って聞きな」


婦長の声が、鋭くなった。


「あんた、自分が何をしようとしてるか分かってるのかい。華族の婚約に逆らうってことは、ただじゃ済まないよ。下手すりゃ、あんたの命に関わる」


「分かっています」


「本当に分かってるのかい」


婦長が、私の目を覗き込んだ。


「あたしはね、昔——」


声が、少し震えた。


「あたしにも、好いた人がいたんだよ。もう四十年も前の話さ。でも、あたしは選べなかった。身分が違う、家が許さない、そう言われて——諦めた」


「婦長……」


「その人は、日露戦争で死んだ。あたしが見送った患者の中にいたんだよ。息を引き取る最期まで、あたしの名前を呼んでた」


婦長の目が、遠くを見ていた。


「あたしは、ずっと後悔してる。あの時、諦めずに戦っていたら。身分なんか関係ないって、叫んでいたら。何か、変わっていたかもしれない」


「……」


「だから、あんたに言っておく」


婦長が、私の肩を掴んだ。


「後悔だけは、するんじゃないよ」


目が熱くなった。


「行きな」


婦長が、初めて——私に笑顔を見せた。


「あたしが時間を稼いでやる。東条の令嬢には、あたしから話をつける。輸送船が出るまでに、なんとかしな」


「婦長——」


「礼はいらないよ。あんたが幸せになれば、それでいい」


私は立ち上がり、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「早く行きな。時間がないんだろう」




§




病棟に戻ると、柴田先生が蒼一郎のベッドの傍にいた。


「先生」


「白石さん。ちょうどよかった」


先生の顔は、いつになく真剣だった。


「橘中尉の記憶が、戻りかけている」


「え——」


蒼一郎を見ると、彼は額を押さえて苦しそうにしていた。こめかみには汗が浮き、呼吸が荒い。


「蒼一郎——」


「千鶴、か……」


蒼一郎が、私を見た。


その目に、微かな光が宿っていた。


「今……思い出しかけた。小さい頃の、君との……」


「無理しないで。ゆっくりでいいの」


「だめだ。時間がない。あの女が……」


「大丈夫。山本婦長が時間を稼いでくれる。だから——」


その時。


サイレンが、鳴り響いた。


空襲警報。


「全員、防空壕へ!」


誰かの叫び声。病棟が騒然となる。


「まずい」


柴田先生が立ち上がった。


「白石さん、橘中尉を頼む。動ける患者は僕が誘導する」


「先生——」


「行って!」


先生は走り去った。


私は蒼一郎の腕を自分の肩に回し、立ち上がらせた。


「歩ける?」


「……ああ」


傷が痛むはずだ。でも、蒼一郎は歯を食いしばって歩き出した。


外に出ると、空が赤く染まっていた。


爆撃機の編隊が、島に向かってくる。爆弾が落ちる音。爆発。悲鳴。


地獄だ。この島が、地獄に変わっていく。


「千鶴、こっちだ」


蒼一郎が、私の手を引いた。軍人としての本能か、的確に安全な方向へ導いてくれる。


「防空壕は——」


「だめだ。あそこは混む。別の場所を探す」


二人で走った。爆弾が落ち、地面が揺れる。瓦礫が飛んでくる。


「——っ」


私は転んだ。膝を打ち、立ち上がれない。


「千鶴!」


蒼一郎が振り返る。


「先に行って。私は——」


「馬鹿言うな」


蒼一郎が、私を抱き上げた。


傷口から血が滲んでいる。痛いはずだ。でも、構わず走る。


「蒼一郎、傷が——」


「お前を置いていけるか」


その声が——昔の蒼一郎と、同じだった。


幼い頃、囲炉裏から私を引っ張り出した時と、同じ声。


「——ああ」


蒼一郎の足が止まった。


「思い出した」


「え——」


「全部、思い出した」


蒼一郎が、私を下ろした。


爆撃の中。瓦礫の中。死と隣り合わせの中で——蒼一郎は、私を真っ直ぐに見た。


「お前を守ろうとしたんだ。あの時も、今も」


記憶が戻った。


その目には、もう迷いがなかった。


「千鶴」


「……蒼一郎」


「約束を、果たしに来た」


爆弾が落ちる。建物が崩れる。


そんな中で——蒼一郎は、私を抱きしめた。


「遅くなって、すまなかった」


涙が、止まらなかった。


でも今度は——嬉し涙だった。




§




「蒼一郎様っ!」


甲高い声が、爆撃の轟音を切り裂いた。


玲子だった。


崩れかけた建物の陰から現れた彼女は、泥に汚れた着物を纏い、髪は乱れ、化粧は剥げていた。あの優雅な令嬢の面影はどこにもない。


「何をしているのっ。早く輸送船に——」


「行かない」


蒼一郎の声は、冷たかった。


「君との婚約は、破棄する」


「なっ——」


玲子の顔が、醜く歪んだ。


「ふざけないでっ。あなたは橘家の嫡男よ。私との婚約は、両家の当主が——」


「俺は覚えている」


蒼一郎が、一歩前に出た。


「全部、思い出した。出征前夜に千鶴と交わした約束も、お前との婚約を受け入れたのが家のためだけだったことも」


「……っ」


「そして——」


蒼一郎の目が、鋭くなった。


「お前が他の男と密会していることも、東条家が没落寸前で、橘家の財産目当てだったことも」


玲子の顔から、血の気が引いた。


「どうして、それを——」


「見ていた者がいる。聞いていた者がいる。お前が思っているほど、この島は広くない」


聞き覚えのある声が、背後から響いた。


柴田先生だった。


「これを見てください、東条さん」


先生が差し出したのは——手紙の束だった。


「あなたと参謀の将校が交わした密書です。輸送船の手配、橘中尉を利用した内地への逃亡計画、全部書いてありますよ」


「どうして、それを——」


「医務室は色々な情報が集まる場所でしてね。あなたが捨てた手紙を、僕が拾っておいたんです」


先生は、いつもの飄々とした笑顔を浮かべていた。でも、目は笑っていなかった。


「これを軍に提出すれば、あなたは——まあ、どうなるか想像つきますよね」


玲子の顔が、恐怖に歪んだ。


「待ってください、お願いっ。私、何でもしますからっ——」


「婚約は破棄する。二度と俺たちの前に現れるな」


蒼一郎の声は、揺るぎなかった。


「……っ」


玲子は何かを言いかけたが、言葉にならなかった。


爆撃の轟音の中、彼女の姿が小さく見えた。あの傲慢な令嬢の面影は、もうどこにもなかった。


「覚えてなさいっ……!」


玲子は捨て台詞を吐いて、闇の中に走り去っていった。


輸送船の方角へ。


一人で。




§




崩れた建物の向こうで、爆撃が続いている。でも、私の心には——不思議な静けさがあった。


「終わった……の?」


「ああ」


蒼一郎が、私の手を取った。


「もう、何も邪魔するものはない」


「蒼一郎——」


「千鶴。俺は、二度惹かれた」


その言葉が、胸に染み込んだ。


「記憶のない時も、君に惹かれていた。そして記憶が戻った今も、変わらず——いや、もっと強く惹かれている」


「……」


「これは運命だ。そうじゃなきゃ、説明がつかない」


涙が溢れた。今日、何度目だろう。


「私も——」


声が震えた。でも、言わなきゃいけない。


「私も、ずっとあなただけを見てた。何年も。あなたが私を忘れても、私だけは忘れないって——」


「千鶴」


蒼一郎が、私を抱きしめた。


爆撃の轟音の中。瓦礫の中。死と隣り合わせの中で。


「すまなかった。待たせた」


「……馬鹿」


「ああ、俺は馬鹿だ」


蒼一郎の唇が、私の額に触れた。


「でも、もう離さない。約束する」


「……本当に?」


「本当だ。今度こそ——」


蒼一郎が、私の目を見た。


「戦争が終わったら、迎えに行く。正式に。橘家の嫁として」


「……っ」


「待っていてくれ、千鶴」


三度目の約束。


でも今度は——違う。


「待たない」


私は言った。


「私も一緒に行く。あなたを守るために、私も戦う」


蒼一郎が、目を見開いた。


「もう『お国のため』なんかじゃない。私は——あなたのために、生きる」


そう言った瞬間、蒼一郎は——笑った。


昔と同じ、不器用で、温かい笑顔。


「……お前は、本当に変わらないな」


「あなたこそ」


「ああ」


蒼一郎が、私の手を握りしめた。


「行こう、千鶴」


空が、白み始めていた。


爆撃は収まりつつある。朝日が、瓦礫の向こうから顔を出す。


地獄のような夜が、終わろうとしていた。


「先生」


私は振り返り、柴田先生に頭を下げた。


「ありがとうございました」


「いいよ、気にしないで」


先生は、いつもの飄々とした笑顔を浮かべた。でも、目元が少し赤い気がした。


「僕は医者だからね。患者を幸せにするのが仕事さ」


「……先生」


「さあ、行きな。戦争はまだ終わってないけど——」


先生が、私たちの背中を押した。


「君たちの物語は、始まったばかりだ」


遠くで、山本婦長の声が聞こえた。


「白石ーっ!生きてるかーっ!」


「はいっ!生きてますっ!」


私は叫び返した。


婦長の姿が見えた。煤だらけの顔で、でも——笑っていた。


「よかった。……ったく、心配させるんじゃないよ」


「すみません、婦長」


「謝るな。それより——」


婦長が、蒼一郎を見た。


「橘中尉。この子を、ちゃんと幸せにするんだよ」


「……はい」


蒼一郎が、深く頭を下げた。


「必ず」


婦長は満足そうに頷いて、他の患者の元へ走っていった。


私と蒼一郎は、手を繋いで歩き出した。


瓦礫を越え、煙を抜け、朝日に向かって。




§




まだ戦争は終わっていない。明日、何が起こるか分からない。


でも——。


「千鶴」


「……何?」


「好きだ」


私は、蒼一郎の手を握り返した。


「私も——好き。ずっと、ずっと好きだった」


命が軽い時代に、それでも愛することを選んだ。


記憶を失っても、二度惹かれた。


それが運命かどうかは、分からない。


でも、私たちは——信じることにした。


この手を離さない限り、何があっても乗り越えられる、と。


「蒼一郎」


「何だ」


「……ありがとう」


「何がだ」


「生きていてくれて」


蒼一郎は、一瞬だけ目を見開いた。


そして——私を抱き寄せた。


「俺の方こそ、ありがとう」


「……何が」


「待っていてくれて」


朝日が、私たちを照らしていた。


血と硝煙の匂いの中に、かすかに——土と草と、日向の匂いがした。


幼い頃、二人で駆け回った庭の匂い。


「戦争が終わったら」


蒼一郎が言った。


「一緒に、帰ろう」


「……うん」


私は頷いた。


「一緒に、帰ろう」




——約束は、果たされた。


そして新しい約束が、今日から始まる。




記憶を失っても、二度惹かれた。


それは運命か、それとも——。


いいえ、もう、そんなことはどうでもいい。


私たちは、信じることにしたのだから。


この愛が、本物だと。




(了)

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