3
見知らぬ洞窟から出て、続く川に沿って歩くこと一時間。
辺り一面、白い葉を茂らせた森であった景色がようやく終わり、街道に出る。街道と言っても、かつて整備された痕跡が残る程度で黒くくすんだ雑草が生えており、人通りの少ないことがありありと分かる有様であった。
今は少ないどころか誰もいない。
右手には先ほどまでいた森、左手にはぽつぽつと木が生えている草原。なだらかな道の向こうにうっすらと次の集落らしき影が見える。
「ミソラまでかかりそうだねぇ。ここは……結構外れの方まで転移しちゃったみたい」
エリヤに倣い、空を見上げたオフェリエは丸い目を瞬かせた。
僅かに青が滲む白っぽい空。どこまでも続いているかのように思えるそれだが、先ほどまで歩いていた森の方角を見てみれば、流れる雲がある一点で不自然に途絶えている。まるで空に境界があり、その先には雲が存在できないとでも言わんばかりに。
「君もここが大樹クオーレの内側だということは理解しているでしょう? どういう理屈かまでは分からないけど、幹の内側はこうやって空の映像が映し出されているんだよ。雲が途切れているあそこは実際に幹が――創世神クオーレの結界がある位置でね。僕らはあそこから外側には行けないんだ」
創世の女神クオーレが施した結界は大樹の形をしているとも言われており、大樹メラグラーナ同様に大樹クオーレという呼び名がついている。大樹の中に大樹が閉じ込められているという、奇妙な構図だ。
ちなみに、大樹と呼ばれる通り結界の形は縦長の筒状となっており、中は三層に分かれている。下から第三層、第二層、第一層と呼ばれ、イザヤたちが今いるのは最下層である第三層だ。
「知識としては私の中に存在していましたが、実際に目の当たりにすると不思議な気分ですね」
「そうだよね。それで、その結界が見える位置にいるということは大樹クオーレの中心から外れた位置にいるってことでね。僕らが目指す都市ミソラは中心の近くにあるから、ちょっと遠いとこに来ちゃったみたい」
「転移魔術は使えないのですか?」
「それは行ったことあって、邪魔が入らないと確信できる場所じゃないと使うのが難しいんだよねぇ。だから結界の外はもちろん、ミソラだってちょっと難しい。行ったことはあるけど使徒がいる都市だから貴族クラスの人間もいるわけだ。当然警備もそこらの町よりはしっかりしているし、街の外から転移しようにも警備に弾かれて変な場所に飛ばされるってオチになると思うよ」
「そうなんですね」
エリヤの説明を聞きながら街道を歩いていく。
説明は全部エリヤに丸投げして、イザヤは空へと向けていた視線を正面へ戻す。
景色はのどかなものだ――と感想を抱きかけたところで、ふと違和に気づく。
街道を外れた少し先、細い木の根元。誰かが幹にもたれて座り込んでいる。
「どうしたの、イザヤ」
「こんな僻地でも人がいるんだなと思っただけだ」
「人がいるんですか? あ、本当ですね。眠っていらっしゃるのでしょうか」
「――いや。あれは」
人影の傍に落ちているのは小型のナイフらしきものと、籠のようなものだ。これは視力の良いイザヤにしか認識できていないのかもしれない。力なく垂れた手はどう見ても起きている人間のそれではない。
こんな辺鄙なところで昼寝を決め込む馬鹿はそうそういない。考えられるのは、用事があってここを通った際に襲われ、気を失ったか殺されたかの二択くらいである。
「動けずにいると? では、助けなければいけません」
生きているにせよ死んでいるにせよ関わる気のなかったイザヤは助けると言い切ったオフェリエを見下ろす。翠玉の聖女様はイザヤをちら、と見た後にぱたぱたと駆け出して行った。
エリヤがのほほんと笑む。
「優しいんだねぇ」
それからふわっと浮いて――魔術の中でも最難関のひとつとされる浮遊を当たり前のように成功させてみせる――オフェリエを追いかけていく。見返りなくイザヤをこれまで何度も助けてくれた彼のことだ、きっと彼女も助ける気なのだろう。
「……」
木にもたれかかっていたのは黒の民の女性だった。年は二十代ほどか。
肩のあたりで切り揃えられた髪は濃い灰色に青紫を混ぜたような色で、顔はそれに隠れてよく見えない。血の類は見えないものの、オフェリエがそっと髪に耳をかけてやると血の気の引いた顔が露わになる。
綺麗な人だ。オフェリエの指先が触れた肌は温かく、目の前の女性が生きていることを示している。
「オフェリエ」
「エリヤさん。この方、顔色は悪いですが気を失っているだけのように見えます」
「ん~と……そうだね。でも、脈が速いし呼吸も安定していない。……あ」
遅れてオフェリエに追いついたエリヤが女性の首元に視線を向ける。範囲が小さい上に一部が服に隠れて見えにくいが、毒々しい紫色の発疹が見える。
「――毒だな」
イザヤがぽつりとこぼす。
「同じ症状を見たことがある。それを食べたせいだろう」
一瞥した先は転がった小ぶりな籠の中身だ。小指の爪ほどもない大きさの赤い粒がいくつか入っている。そのうちのひとつを摘み上げ、イザヤは肩をすくめた。
「食用の木の実とよく似た見た目の毒の果実がある。大方、間違えて食べてしまったといったところか」
「解毒する方法はないのですか? 見たことがあるというのなら、そちらもご存じなのでは?」
「……別に、毒と言っても致死のものではない。せいぜい七日程度、体が麻痺して動けなくなる。それだけだ」
「それでも、七日も放っておくことはできません」
オフェリエは目をそらさない。
「私の使命はメラグラーナを討つことですが、それは人々の安寧を手に入れることでもありますから。こうして困っている人を救うのもまた、同等の使命だと思うのです」
「……はぁ」
どうやら、本当に聖女様のような思考をしているらしい。
「お願いします。イザヤさん」
「……」
白い上着の内ポケットに手を突っ込み、イザヤは小さな革袋を取り出す。それをオフェリエに手渡す。
きょとんとした表情のオフェリエが紐を緩めれば、爪ほどの小さな粒が数個入っているのが見えた。くすんだ赤色をしたそれは乾燥している。
「そいつをあるだけ食わせろ。中和する効果がある薬だ。まぁ、今持っている分はそれで最後だが」
支持を飛ばせば、数度瞬いたオフェリエの口角が淡く上がる。まだまだ真顔の範疇であり、笑顔とは呼べない表情だが、微かに雰囲気が和らいだ――ような気がした。
分かりにくいオフェリエとは正反対に、後ろでエリヤがニコニコと笑んでいる気配を察知する。見なくとも分かる。きっと満面の笑みなのだろう。
「ありがとうございます。優しいのですね」
す、と真顔に戻ったオフェリエがいそいそと眠る女性の下へ向かうのをイザヤは黙って見守った。
最中、エリヤが隣に立つ。
「それ、あげて良かったの? たまに飲んでたよね」
「作り方は知っている。材料があればだが」
「叔父さんが教えてくれたんだよね。……でも、早めに入手しないとだね。ミソラにあればいいんだけど」
「まぁ、しばらくは大丈夫だろう」
イザヤが渡したものは複数の木の実を配合した丸薬だ。即効性の毒には効かないが、女性が食べた毒の果実に対しては中和の効果を発揮する成分が入っている。他には沈痛効果のある木の実と解熱効果のある木の実も混ざっている。
かつてイザヤの叔父が誤って毒を口にした甥を助けるために作った薬。頭脳明晰だった叔父はたったの半日で配合を考え付き、それ以来はイザヤが怪我や病気に苦しんでいるときは症状に合わせて配合を変えるなどといった芸当もできるほど、博識な人だった。
彼が亡くなってからは、見様見真似で作成していたのだが――最近は翠玉の聖女様の覚醒計画に集中しており、材料の確保を忘れていた。時折襲い来る頭痛を沈静化させるために飲んでいたが、我慢できないほどではないだろう。
「ううん……」
うめき声が聞こえる。
視線を戻せば、女性が咳きこみつつ意識を取り戻した様子が視界に映る。
「も、申し訳ございません。飲ませ方が上手くいかなかったのかも……」
「君は……」
顔色は悪いままだが、薄黄の瞳はオフェリエのそれとは違う、大人びた芯の強さを感じさせる。
「あなたはここで倒れていたのです。この毒となる木の実を口にしたために」
オフェリエが持ち上げた籠の中身を一瞥して、女性は僅かに目を眇める。
「そう、か。君たちが助けてくれたのだな」
「薬は即効性ではない。体内で毒素と中和するには一晩はかかるだろう」
「じゃあ、どこか休める場所に移動した方がいいねぇ。近くに建物はない? 町までは少し遠いし」
女性はイザヤとエリヤを見上げ、何度か瞬く。
イザヤとオフェリエの目立つ容姿はエリヤが認識阻害の魔術で隠してくれているはずだ。そのおかげか否か、女性は特に驚きもせず頷く。
「……あぁ。近くに私が世話になっている施設がある。どうやら君たちには助けられたようだし、施設の者も泊めるくらい許してくれるだろう」
まだ青い顔のまま立ち上がろうとした女性をオフェリエが支える。
「無理はいけません」
「ありがとう。そうだ、君の名は?」
「私はオフェリエ。こちらのお二人はイザヤさんとエリヤさんです。あ、そうだ」
オフェリエが思いついたと言わんばかりに声をあげると同時に、彼女の影が揺らめく。そこから聖堂でも見た緑がかった枝が現れたかと思うと、女性をそこへ腰かけさせる。
それにはイザヤとエリヤも固まるしかない。影から物を生み出す魔術など、黒の民は持ちえないからである。これではオフェリエが普通の人間ではないことを暴露しているようなものだ。
「これなら無理させずに運べますね」
「オ、オフェリエ。これは……」
「あー! はいはい! 彼女、ちょっと訳ありの黒の民でして! 僕らはお忍びの旅の途中なので、今見たものは他言無用でお願いします!」
「いえ、私のこれは」
「お前は口をふさいでおけ。面倒なことになる」
「……」
オフェリエは言われた通りに両の手のひらで口をふさいだ。そういうことを言いたかったわけではないが、イザヤは突っ込むのをやめた。
「そ、そうか。こんな辺境に訪れるくらいだ。君たちにも何か事情があるのだろう」
「すみませんねぇ、ほんと」
エリヤの無理のある言い訳にも、女性は深入りすることもなく頷く。
彼女の言う通り、結界の境界に近いこの場所は人間があまり暮らさない。なぜならば。
「近くにある施設とは、霊林のことか」
「……その通りだ」
イザヤの問いに女性は頷く。
「れいりん? それは……」
不思議そうなオフェリエに、女性は君は世間知らずなのだな、と苦笑する。
「霊林は呪いを発症した者が送られる施設でな。呪いが進行して体が木になるまで――要するに死ぬまで出ることが許されない、言わば墓のような場所だ。元は人間だった木が周囲に植えられていることから霊林と呼ばれるようになった。私はそこで子供たちの面倒を見る手伝いをしている。それとは別の仕事もしているが――あぁ、そうだった。まだ名乗っていなかったな」
耳に髪をかけ、女性は月のように淡く微笑んだ。
「私の名前はノヴァ。普段はミソラでフリンデル=アダラ家の使いをしている」
「ノヴァさんですね。よろしくお願いいたします。……お二人とも、どうしたんですか?」
ぺこりと頭を下げたオフェリエは隣で歩いていた男二人を見上げる。
イザヤとエリヤは共に数秒黙っていたが、顔を見合わせた後にエリヤの方が恐る恐る片手をあげた。
「フリンデル=アダラ家って、使徒ソルに仕えているっていうあの?」
「あぁ。その認識で合っている」
まさか、こんなに早く使徒ソルへ会うためのコネが見つかるとは。イザヤは無表情を保ちつつ、オフェリエの人助けが功を奏したことに内心感謝した。
このノヴァという女性を利用して、使徒ソルへの足掛かりをつかむこと。
それが次の目標となった。