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バシャン、いう音と共に全身が濡れるのを感じる。正確には、水に落ちたと言うべきか。
流石に水中に転移するのは初めてだったが、努めて冷静に片目だけ瞼を開ける。
暗い――が、水面から差し込む光が通るくらいには澄んだ水辺であるようだ。近くにはバタバタしているエリヤと、両目を見開いて口からゴボゴボと空気を吐き出しては不思議そうにそれに触ろうとしているオフェリエ。二人の首根っこを掴み、ひとまず岸辺へと引っ張り上げる。
水面から岸辺――岩場へと上がれば、ひんやりとした空気が全身を撫で上げる。じっとりと濡れた髪と衣服がかなり気持ち悪い。髪飾りが外れていないことをしっかりと確認してから服の裾を絞り上げた。
ここは洞窟の中のようだった。
正面には外への出口がぽっかり広がり、外からの光が淡く差し込んでいる。近くに川があるのか、そこから階段状になった岩場を伝って清水が流れ込み、洞窟内に湖を作っているようだった。キラキラと反射する水面は見る人が見ればうっとりする絶景なのだろうが、全身がずぶ濡れの今は楽しむ気分にはならない。
雑に引き上げられたエリヤがうめき声をあげながら起き上がるのを横目に見る。
「ひ、酷い目にあった……」
「座標管理くらいしっかりしておけ」
「イレギュラーだったから仕方なくない!? ……ふぎゃ!」
恨み言を言いつつ、エリヤが人差し指を振れば温い風が吹き、髪や服から余分な水分が抜けていく。
それはイザヤだけでなく、隣で大人しく座り込んでいたオフェリエのものも同様に乾いていく。不可思議な現象に目を丸くした彼女は隣にいたエリヤの髪や服をペタペタと触り始めた。いきなり触れられたエリヤの情けない悲鳴が洞窟に響く。
「すごい……どのような原理なのですか、これは」
「びっくりした……これはね、単に服と体表面の水分量を調節しただけだよ。蒸発というよりはこれも水分だけ別の場所に転移させた、という方が近いかな? ま、僕は黒の民の中でも天才だからこれくらい造作もないことだけど」
「私にも出来ますか?」
「いや~どうかな……君、黒の民じゃなさそうだし。白の民でもなさそうだけど」
えっへん、と得意げに笑んだエリヤは、次いで自らの髪に指を絡める。
「自己紹介がまだだったね。僕はエリヤ。イザヤの相棒やらせてもらってます。髪色で分かると思うけど、黒の民だから魔術が使えるんだ。君たちを大聖堂から連れ出したのは僕の転移魔術ね。いきなり驚かせてごめんね」
大樹クオーレに住まう人間たちは、時を経るにつれて髪と瞳の彩を少しずつ失っていったという。それに伴い、色が薄くなれば【白の民】、色が濃くなれば【黒の民】と区分されるようになった。また、何故か白の民は五感や筋力といった身体能力が向上し、黒の民は魔術を操る力を得た。
それらは髪と瞳の色が無彩色に近ければ近いほど強力になる。また、それらは色は遺伝するため、無彩色に最も近しい一族は他の人間を圧倒する力を持つことから大貴族と呼ばれるようになった。
白の民は白の大貴族【フリンデル=ウィット】家。黒の民は黒の大貴族【ステラ=アーテル】家。それぞれの当主が所謂【王】のような役割を担っているが、あくまで大貴族という家系の当主であるという建前で君主を名乗っていない。
そして、オフェリエのあまりにも鮮やかな黄金の髪と翠玉の瞳は、白とも黒とも言えない。触手のように木を生み出し操る力は持っているようだが、それは黒の民の魔術とは趣が少し異なっているようにも見える。
黒の民の魔術は大体が自然現象をわずかに操る程度の力で、貴族クラスだと人間の意識へ干渉するといったものもあるようだが、少なくとも無から有は生み出せないとされる。そのためオフェリエは黒の民でもない……と、思われる。ちなみにエリヤは貴族ではないとイザヤに言い張っているが、転移や認識阻害等の一般人では到底扱えない部類の魔術をいとも簡単に発動させてみせるどう見てもイレギュラーな存在である。
イザヤ自身、白の大貴族出身であることを隠してもらっているため、特に突っ込むつもりはないし興味もない。
オフェリエはエリヤの話を聞きつつ、今度は彼の手へ自らの手を伸ばす。
「エリヤさん。貴方が私に初めて触れてくれた人ですね。そして不思議な術を使える……」
そして翠玉の瞳はイザヤの方を向く。
「イザヤさんが私を目覚めさせてくれた人。力が強い。ふむ、あなた方の概要は分かりました」
一人で勝手に納得したように頷き、それからオフェリエは首をかしげる。
「それで、メラグラーナはどちらでしょう? 私はどうすればかの女神を討てますか」
そこまで聞いて、イザヤとエリヤは互いに顔を見合わせた。
「……大口を叩いた割に、世界の状況を理解していないとは」
「はい。夢を見てはいましたがずっと眠っていたので、外の世界のことは分からないのです。申し訳ございませんが、教えていただけますか」
彼女は会話こそある程度できるが、世界が今どのようになっているのかまではよく理解していないらしい。
呪いの女神メラグラーナ、及び彼女の力が具現化した大樹メラグラーナ。
それらは創世の女神クオーレによって封じられているが、それはあくまで外の世界を守るための封印であり、結界――大樹クオーレの内側にいる人間たちを守るものではない。
故に、しばらく大樹メラグラーナが暴れていた時期があったようだ。根や枝、葉すら暴れまわり無差別に周囲の集落を潰して回った。その中で一人の英雄が現れる。
名をガイスト。呪いに蝕まれ、半分木と化した体を自在に操り、遺された女神の遺物を用いて大樹メラグラーナを抑え込む封印を施した男。彼は神から力を授けられたと語り、後に【使徒】と呼ばれることとなる。
使徒ガイストは体が木化してもなお外見を人間のそれに留め、また意志を失うことなく永い時を生き続けている。自ら施した封印を監視するために。
「その封印を解かなければメラグラーナに近づけないというわけですね」
「そう。封印は全部で三つ。女神が残した遺物の力で大樹メラグラーナの動きは封じられているわけだけど……でもね、使徒は一人じゃないんだ」
千年近いの歴史の中、使徒と呼ばれる存在はガイストを含め三人現れた。
二番目の使徒はフロールという女。三番目の使徒はソルという少年。彼らもガイスト同様、木化の呪いを自分のものにし永い時を手に入れた元人間だ。
二人は先人ガイストに協力し、大樹メラグラーナの封印を監視している。
「彼らを倒すか説得するかして遺物を破壊しなければ、メラグラーナに近づくことすらできない。まずは使徒をどうにかするところからだ」
「分かりました。では、使徒をどうにかしましょう。……その【どうにか】には何かお考えが?」
「……」
ただでさえ水の音以外は静かな洞窟に、さらに冷ややかな静寂が流れる。
黙って視線を逸らすイザヤの横で、エリヤが綺麗に笑ってみせた。
「ノープランだよ!」
それはそれは清々しい笑顔であった。
「……?」
「無計画! 何せほんとに君が目覚めると思ってなくて、その後のこと何も考えてなかったからね!」
「……」
「……」
オフェリエの視線がイザヤの方を向く。
そっと、逸らす角度を増やした。
「あの。もし私が目覚めなかったら、どうするおつもりでいたのですか?」
「……」
「使徒に当たって玉砕しろ作戦を実行するところだったね! きっと玉砕どころか塵一つ残らないくらいに粉々になって終わったと思うよ!」
そもそもオフェリエを覚醒させるのも、エリヤがいなかったら近づくことすら叶わなかったのだ。彼があれこれ計画をたてて、時間をかけて大聖堂内部に侵入することができたのだから。
イザヤは計画を立てるのが苦手だ。
「でもいいのさ。君が目覚めたからね、あとの細かいところはこれから考えればいい。ひとまず、一番近くにいる使徒ソルへ会いに行こう」
「ソルは都市ミソラにいることが多い。まずはそこに向かう」
「分かりました。ひとまず、あなた方に着いていきます。――どうぞ、よろしくお願いいたします」