第八話
〈王命〉が再び王都を駆けたのは、灰色の雲が塔の尖端に絡みつく晩夏の朝だった。
白外套の第一王子レナティウスは、屋敷の回廊を抜けながら軽く欠伸を嚙み殺す。
だが瞳の底は冴え、仮面の愚者を脱ぐ準備を静かに整えていた。
王城上層、彩色ガラスに遮られた小さな私室。
枢機卿の秘話をも拒む場所で、フェルヴィオ四世は細身の王笏を杖にして立っていた。
窓越しの逆光が皺の深さを際立たせる。
「来たか、レナティウス。――腰を下ろせ」
促しを無視し、王子は背を真っすぐにしたまま距離を保つ。
「心得を授ける。王たる者、民を分け隔てず抱き、血を分けた弟は誰より近き右腕とせよ」
レナティウスは黙していたが、雫のような笑みが口角に浮かぶ。
「弟セラディウスを、臣下に据えよ。王座の安寧はそこにある」
「父上のお気持ちはわかります。けれど、あいつを膝まずかせる気は毛頭ありません」
「兄弟の情が邪魔をするか?」
「情があるからこそ、“臣下”にはしない」
王笏が床を鳴らす。乾いた音が私室に跳ね返り、王の声が低く震えた。
「二つの光は並び立てぬ。宙ぶらりんにすれば、家臣も民も二つに裂ける」
「裂けるなら結び直します。――弟が臣下に甘んじるような国では、切れ目は別のところに走る」
老人の眉間が深く寄る。
「思慮なき理想を振りかざすな!」
「愚者の分際で、ですよね」
皮肉を交えた一言が、硬い静寂を割った。
フェルヴィオ四世が一歩詰め寄り、王子も譲らず踏み込む。二人の影が床で重なった。
「玉座は遊戯の駒ではない!」
「だからこそ、駒を折るつもりはないんです」
「王国は私兵の演習場ではないぞ、レナティウス!」
「承知しています、父上。だから弟には剣ではなく “議論” で挑むつもりです」
「議論で済まねばどうする! 血を交えぬ兄弟の争いほど国を割くものはない!」
「議論交えたほうが、国を割くよりましでしょう?」
冷たい火花が散るような沈黙、
次の瞬間、父子は互いの言葉を遮り、大声が私室の石壁に反響した。
「愚か者め!」
「時代遅れの軍略よりは!」
控えていた侍従が蒼白になり、扉の外へ走る。
陛下とレナティウス殿下が月桂の間で大喧嘩!
噂はあっという間に石造りの回廊を滑り落ち、廷臣の耳へと飛び火した。
“王城の奥で父王と第一王子が怒号を上げた” と。
叫び合いはやがて力なく途切れた。
レナティウスが深く息を吐き、王は震える手で王笏を掴み直す。
「……父上。私は愚者の冠を被る覚悟で即位します。
ですが、弟を地面に伏せさせることだけは、どうしても私の理に合わない」
フェルヴィオ四世は汗ばむ額を拭い、掠れ声で応える。
「理想が過ぎれば、国は崩れる」
「崩れるなら――支える手を増やします。方法が臣下以外にもあると、最後まで模索させてください」
沈黙。やがて王は椅子へ深く腰を落とし、震えを抑えるように瞼を閉じた。
「好きにせよ。ただし、結果はおまえの双肩に掛かる」
王子は跪かず、しかし確かに頭を垂れた。
王子が私室を出ると、溜め息を吐く。
隣の部屋より、ギュスターブが姿を現す
「ギュスターブ、余は不安じゃ。未だ早いか?」
「陛下、その様な事はございません。レナティウス殿下は、いずれ陛下のお言葉がわかる日がくるかと」
「国が割れるぞ?」
「ええ、そうでしょうな。然しながら弟君では、レナティウス殿下の足下にも及ばぬかと」
「うむ」
「大変口にするには、恐れ多い事ではございますが、レナティウス殿下が、弟君を手に掛かなければいけなくなった時に全て悟る事になるかと」
「うむ」
王は、暫く黙り何事か考え
「最早、そうなるしか」
“王と王子の大喧嘩”。
その噂は、王城内で持ちきりとなった。