第七話 思惑
日が沈んでも、王都グランパルマはざわめきを止めなかった。
王位継承の宣言があった朝「第一王子レナティウス、次期国王に任ず」と王の口から告げられて以来、街の広場でも宮廷の奥でも、ざわめきは止むことがない。
だがその熱気の中心からは、第二王子セラディウスの姿が消えていた。
――その宵、王子邸の〈沈香の間〉。
翡翠の壁布に囲まれ、天井からは六芒星の灯籠が下がる静謐な部屋で、セラディウスは執務机に一人、腰かけていた。
燻された沈香の香りが薄く煙をたなびかせる中、青銀の瞳が書簡に落とされている。
その書面には、まぎれもない王命の筆跡があった。
〈王位は、長子たる第一王子レナティウスへ譲る〉
何度読み返しても文言は変わらず、王印も揺るがない。
セラディウスは笑った。
ひとつ、乾いた嗤いだった。
そして、震えるような声で呟いた。
「……なぜ、“あの男”なのだ」
彼は立ち上がり、机を背に部屋の中央へ向かう。
侍女に命じ、従騎士カイル・ルヴェランを呼びつけた。
暫くして、ドアが叩かれ、カイルが頭を垂れて入室する。
そしてその背後から、もう一人の影が滑り込んだ。
外務伯爵、ガリンディウスである。
灰緑の外套、漆黒の手袋、銀の鞘口を覗かせる姿で、男は沈香の間にすでに馴染んでいた。
「殿下。……今夜のご心中、察するに余りありますな」
セラディウスは火酒を注ぎ、無言で卓に置いた。
伯爵はその杯を取り、柔らかく笑った。
「王冠は殿下にこそふさわしかった。少なくとも、我が帝国の政庁では、全員がそう信じております」
「……当然だ」
セラディウスの声は低く、冷たい。
「兄は、剣も、学も、法も知らぬ。民を導く才覚もない。――放蕩の愚者が、どうして王冠を継ぐのだ」
「貴族連中の見方は変わるでしょうか?」
「表向きは従う。だが、心までは従うまい。……私が導く道のほうが、国を栄えさせると、誰より彼らが知っている」
伯爵は頷き
「殿下。ひとつ、実務的なご提案を」
「なんだ」
「兄王子が即位なさるまでの猶予、あとわずか。もしも、その期間に――愚者が崩れたなら?」
セラディウスの瞳が細められる。
「……兄を?」
「何をおっしゃいますやら。ただ、ひとつの仮定です。病は誰にでも訪れる。……“偶然”という言葉は、便利な盾でございます」
部屋の沈香の香が濃くなったような錯覚。
カイルは顔を伏せたまま動かない。
伯爵の声は柔らかく、だが鋼の芯を孕んでいた。
「我が帝国も、殿下の政治力には高い信頼を置いております。もちろん、しかるべき支持をお付けします」
セラディウスは杯を置き、静かに頷いた。
「任せていただこう。私は、理でこの国を統べる」
杯の酒が干される音が、沈香の間に静かに響いた。
夜の王都を包む潮霧の下、《緋桟橋》は灯籠の橙を揺らしながら三弦と哄笑を吐き出している。
黒外套のフードを払ったオルフェリアは、サヴィンの言葉を胸裏で反芻した。
「殿下がお忍びで外出です。急ぎ連れ戻して頂きたい」
もっとも賑わう木戸を押し開けると、湯気と煙草のにおいが混ざった熱気がぶつかる。
人垣の奥、白外套の男が卓に足を投げ出し、酒瓶を豪快にあおっていた。
第一王子レナティウス・イン・グランパルマ。琥珀の瞳が即座に彼女を捉えた。
「……オルフェリアか。探偵ご苦労」
踊り子を膝から下ろし、王子は顎をしゃくる。
オルフェリアは卓へ近寄り、控えめに頭を下げる。
「殿下をお連れするよう、執事長から仰せつかっております」
「堅いなあ、秘書殿。せっかくだ、グラスぐらい傾けてけよ」
賑やかな囃し言葉に背を押され、彼女は腰を下ろした。
王子は赤のワインを注ぎ、乾杯の合図にグラスを軽く合わせる。
店を出ると、王子はわざと裏通りを選び歩き出した。
石畳を濡らす霧に灯籠の光が滲む。
「正門の馬車庫はこちらでは――」
「歩いた方が早い。潮風が冴えるしね」
王子は笑い、彼女の歩幅を計りながら歩く
《海燕亭》三階・月影の個室
古い扉が閉まると、外の喧騒は遠ざかり、月光が一本斜に落ちるだけ。
葡萄酒の新しい瓶が卓に置かれ、王子が寝台に腰掛ける。
「“愚者王”の秘書、夜回りも大変だろ?」
「殿下、また私の体をご所望かしら?」
長手袋を外しながら投げる問いに、王子は首を振る。
「いや。今夜ほしいのは君の“中身”だ」
酒を揺らす琥珀の瞳が、ひときわ鋭く細まる。
「影犬から報告があった。ヴァレロン公国〈蒼鷲房〉――暗殺工作線。その諜報員だったとわね。」
オルフェリアの睫毛がわずか揺れただけで、否定はなかった。
「狙いは父上フェルヴィオ四世。“愚鈍な王”が玉座に就けば国力は衰え、帝国に従属するだろうていう筋書きか・・・・公国の狙い通りに即位者が俺に決まった今、暗殺の口実は潰えた。計画は頓挫したわけだ」
王子は静かに問いを落とす。
「そこで聞く。ここを去るか?」
女は窓辺へ歩み、月をひと撫で見る。
細刃を袖から抜き取り、卓へ置いた。銀が冷たく光り、音はしなかった。
「ええ。そのつもりでした。けれど、戴冠式までは傍にいます。帝国が“最後の保険”を残している可能性は捨て置けませんもの。恐らく帝国の狙いは、殿下の命。それに・・・」
「それに?」
「弟君も、殿下を」
振り返った藍の瞳は澄み、敵意も従順も映さない。
レナティウスはオルフェリアの言葉を無視するかのように
「護衛でもしてくれるのか?」
「そのつもりですわ」
王子は肩をすくめ、 葡萄酒を満たしたグラスを差し出す。
「女に守られるとはな」
ふたつの杯が月光の下で薄くぶつかり、紅い液面が微かに震えた。
音は小さくとも、それが“暫定の共闘”を封じる契約の響きとなる。
湾に浮かぶ帆柱へ銀の筋が射し、鐘が遠く三刻を告げる。
暗殺の刃は鞘に収まった。
だが戴冠式の朝まで、その鞘が再び開かれぬ保証はどこにもない。