第六話 王城参内
〈王命〉
それは夜明け前の霧を引き裂き、王城伝令所の銅鐘とともに王都全域へ放たれた。
白羽根の伝書鴉が第一王子レナティウスの屋敷に舞い降り、蝋封に刻まれた〈双剣〉の印がぱきりと割れる
「暁光の間へ。直ちに参内せよ」
文を読み上げた従者の声を背に、レナティウスは欠伸まじりに白外套を肩へかけた。
「また父上の気まぐれか」と軽口を飛ばす一方で、琥珀の瞳の奥には燠火〈おきび〉のような光が瞬く。
黒御影の敷石は薄い朝露を吸い、踏むたびに靴底が低い軋みを奏でる。
天井の飛梁に掲げられた紋章旗が小さく揺れたそのとき、深紅の式服を纏った 第二王子セラディウス が回廊の影から姿を現した。
「おはようございます、兄上。王のお召しとあらば胸が高鳴りますね」
「眠気のほうが高鳴ってるさ。……で、今日も〈面白い〉学説を用意してきたか?」
二人は肩を並べ、陽光の縞が走る長い回廊を進む。
白壁に跳ね返る足音が重なり合い、床に映る月桂紋を交互に踏み散らすリズムを刻む。
「古史によれば、王位継承の詔は《暁光》で告げるのが千年の慣わし。今日はまさしく吉兆の朝です」
「縁起まで背負わせるとは恐れ入った。……まさか、俺が即位すると?」
「兄上ほどのご才覚なら当然かと」
その声色は澄んでいたが、磨かれた床に映る影は刹那わずかに震えた。
「廃嫡の噂もあるけどな、裏で帝国が根回しをしてるらしいが」
レナティウスは、悪戯っぽい笑みを弟にむけ、暁光の間に気怠そうな足取りで歩き出した。
高窓から真東の光が差し込み、王家紋章〈月桂に双剣〉を大理石へ焼き付ける。
病を押して立つ王は、銀で象られた小さな王笏のミニアチュールを掲げた。
「余は定む――レナティウス・イン・グランパルマを次代の王とする」
宣言が石壁を震わせ、廷臣たちの歓声が弾けた。
兄が片膝を突くより早く、セラディウスはひざまずき朗々と讃える。
「兄上こそ我らの光明! 学の枝葉も血潮も惜しみなく捧げましょう!」
喝采の合間、レナティウスは弟へちらと視線を送り――無能の仮面の下で、探るような笑みを浮かべた。
その夜、祝宴の招きをすべて断ったセラディウスは、自邸の“沈香の間”に籠もる。
翡翠壁布に囲まれた円卓で祝辞稿を焚き、羊皮紙に港湾収支を転写しながら、赤墨で 〈即位日〉 を何度も塗り潰す。
甘い沈香の煙が天井に溜まり、瞳に宿る影をなお深く染めた。
(理こそ正義。愚者を擁す王国は、私の刃によって正されねばならぬ)
王都が即位準備に沸き返る頃。
レナティウスの執務室は公文書と空いた酒瓶で荒れ果てていた。そこへセラディウスが静かに入室し、深々と跪く。
「臣下の礼を取らせて下さい。王たる兄上を、この身でお支えしたい」
「弟に頭など下げさせるか。立て」
それでも額を床に押し当てたまま、声は震えない。
「忠誠の証を頂ければ、いかなる苦難も」
レナティウスは引き出しから一本の短剣を取り出す。
銀鍔に月桂が彫られ、柄頭には白銀の小石。刃の根元には彼自身の花押が刻まれている――“白銀の剣”。
「臣下にはしないが、助力は頼む。この剣を託す」
「兄上の剣、決して錆びさせません」
刃紋の冷光が弟の瞳を鋭く屈折させた。
「兄上、これで失礼します」
レナティウスは、執務室の扉が閉じられるまで、弟の背中を見送った。
セラディウスが馬車へ乗り込もうとした瞬間、静かに近づく影が一つ。
灰緑の外套、漆黒の手袋――外務伯爵ガリンディウス、四十八歳。
伯爵は誰の目も届かぬ薄闇で、深々と頭を下げると、弟の耳元へ低く囁いた。
言葉は風に溶け、沈香の香とともに夜気に消える――だが、その瞬間セラディウスの表情が硬く引き締まり、瞳の闇がさらに深く沈んだのを、馬車灯だけが映し取った。
伯爵の囁きを聞いた第二王子の唇がわずかに開く。
その音なき返事は、闇の中で刃が研がれる音にも似ていた――。
月のない夜空を裂く鐘が十二を告げる。
王都は祝福と不安の入り混じる静謀の気配に覆われ、
“白銀の剣”に刻まれた花押と、外務伯爵の密かな囁きが、やがて血塗られた証となることを、まだ誰も知らない。