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第五話 密談

 

 月が霞んだ王都湾の蒼を灯台の火が撫でる頃、第二王子セラディウス邸の奥まった回廊はしんと息を潜めていた。


 赤煉瓦の壁を伝う潮気が灯籠に白く曇り、

 その先


 “沈香の間”


  と呼ばれる客室の扉だけが、獣皮を張ったように重厚な黒檀で出来ている。


 扉がわずかに開くと、甘い煙が外気を押し返すように流れ出た。


 部屋の中央には翡翠色の壁布に囲まれた円卓。


 六芒星を象った天井灯が燭火を孕み、硬質な光を一点に収束させている。


 黒檀の書棚が四面をぐるりと睨み、書架の影が獣の牙列のように床へ伸びていた。


 卓を挟むのは二人のみ。


 第二王子セラディウス・イン・グランパルマ


 金糸の刺繍で若枝の王紋をあしらった外套。

 背筋は弓のように真っすぐ、瞳は夜晶石の硬い光を湛える。


 対するは近隣大国アルケイン帝国の


 外務伯爵、フレマス・ロセル。


 黒紫の外套から覗く痩躯は影のように長く、掌には翡翠の懐中時計が転がっている。


 随員や書記は命じられて退室し、扉の外で傭兵が耳を塞ぐ。炉には沈香木が低く燻り、甘く重い香が思考を鈍く絡め取る。


「港の第一接岸権――帝国商船が最優先で碇を下ろし、税関印を簡略化するだけでよろしい。

 書面は不要、戴冠の後に“慣例”として定着させればよいかと」


 伯爵の指先が円卓に広げた彩色地図を滑る。海門砦を撫で、湾曲した水路をなぞり、王都中心へ向けて侵攻線を描く。


 セラディウスはその線上に指を置き、淡く笑んだ。


「交易の活性化は学術都市の発展に不可欠。兄上は武力を誇示するが、私は“理”で国を拓く。

 即位後、議会掌握を前提に港湾税の再編成を行おう。あなた方の協力は黄金に値する」


 彼の声は滑らかで、講堂の演説の如く抑揚を湛えている。


 だが講壇とは異なり、ここに聴衆はいない。計算する眼だけが彼の雄弁を計る。


 ロセル伯は懐中時計の蓋を開き、銀文字盤をひと目見るとカチ、と音を立てて閉じた。

 その小さな金属音が部屋の空気を鋭く切り裂く。


「ご決断が早い。理性の王子と謳われるお方に相応しい。

 今季、港湾歳入は十二万金レアトル、その三割を“船舶保護料”として帝国に納めていただくだけで、

 殿下の戴冠式へ陸海いずれも後押しをお約束しましょう」


 セラディウスは聞き慣れた数字に眉を動かす。

 歳入簿で記憶した額と、伯爵の提示額がぴたりと一致している。


 自身の学究的才覚が認められたと錯覚し、胸奥に熱を覚えた。


「適正と見ます。交易の流れが加速すれば、税率を下げても歳入は拡大する。

 港湾の活気が王国の未来」


 伯爵は柔らかく微笑み、沈香の煙を指でまさぐった。

 煙は指先に沿って揺れ、王子の視界をわずかに霞ませる。


 交渉がまとまるや、セラディウスは古典史の引用を始める。

 《アルケイア古文書》や《北洋交易律》を立て板に水で並べ、その暗記力を誇示するかのようだ。


「関税の軽重は民の繁栄を量る天秤、また良き港は学匠の門とも言われる。交易が知を呼び、知が力を生むのだ」


 ロセル伯は時計の鎖を弄びながら頷く。

 その瞳は賞賛よりも計算の光に満ち、王子の言葉尻で“無能の片鱗”を計っている。


 話が佳境に入ったと見るや、伯爵は懐から銀細工の封蝋を載せた羊皮紙を取り出した。

 羅針盤を模した封蝋には帝国軍第三艦隊の紋章、日付は二週間後、“親善訪問” の名目で入港予定。

 艦艇数は港の収容上限を超えていた。


「海防に心を砕いていただけるとは……帝国のご厚意に感謝する。

 私が王座に就いた暁には、両国の黄金時代を約束しよう」


 杯が触れ合う澄んだ音が、沈香の間に一瞬だけ高く響く。

 その音色は、琥珀の液体が覇権の杯へ注がれる微かな合図だった。


 ロセル伯が立ち上がり外套を払うと、沈香の煙が割れて潮の匂いが流れ込む。


 伯爵はゆっくり頭を下げ、最後に時計を二分だけ進めた。


 カチリ


 針が動いたと同時に扉が開き、闇へ溶けるように伯の影が去って行く。


 静寂が戻ると、セラディウスは胸の昂りを抑え切れず拳を握った。

 握ったはずの拳には、港湾の砂が指の間からわずかに零れている。

 だが彼はまだ、その感触に気づかない。


 邸外の林道で待つ黒漆の四輪馬車に乗り込むと、ロセル伯は窓越しに王都湾の闇を眺めた。


 帆影が月光に浮かぶたび、金庫の蓋に手を掛ける鍵束のように見える。

 従者が口を開く。


「今季歳入十二万金レアトル。三割で三万六千、十分な初手です」


「若枝ほど扱いやすいものはない。

 王冠と共に《帝国商務院》の印璽を嵌めさえすれば、南岸の交易路はすべて我らの金庫に繋がる」


 伯爵は時計の蓋を指で弾き、音もなく微笑んだ。

 針は二分進んだまま戻らない。


 傀儡が玉座に就くまでの残り時間を告げるように。

 沈香の間にはまだ甘い煙が漂い、翡翠壁布の影がゆっくり伸びている。

 その影は王子の若い輪郭を飲み込み、いつか破滅へ続く黒い汀線へと姿を変えていた。


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