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第四話 秘書官

 

 仄暗い寝室へ、沖の潮霧を孕んだ朝凪が忍び込む。


 王都湾を見晴らすこの屋敷では、常より早く帆柱を打つ音が遠くに響き、まだ人声は届かない。


 白亜の壁を滑った微光が天蓋を撫で、寝台では乱れたシーツが二人分の体温をせり上げる。


 王都湾を見晴らすこの屋敷では、常より早く帆柱を打つ音が遠くに響き、まだ人声は届かない。


 片側の枕に絡み付く長い黒髪が、昨夜の行為の顛末を静かに語っていた。


 レナティウスは浅く息をつき、片肘で上体を支えながら伸びをする。


 白いリネンが肌に纏わり、喉奥に残った酒の甘苦さが早朝の静けさを軋ませる。


 床へ投げ捨てたシャツを探し、指先が冷えた床板に触れたとき


 窓辺では、麦わら帽子も長手袋も外した女が片肩に毛布をまとい、まだ青い湾光を嘗めるように眺めていた。


 裸足の爪先が床をなぞる。その妖しげな曲線が、夜に交わした無言の契りを指でなぞり返す。


「おはようさん。……あれだけ飲めば、喉は砂漠だよな」


 王子は半分笑い、卓上の水差しから透き通る朝の一口を注ぐ。


 欠片のような水音が二つの杯に咲き、女は細く息を吐いて受け取る。


 水は喉を滑り落ちながら、互いの胸中に残る微熱を静かに醒ましていく。


「そうだ。ついでに訊きたい」


 レナティウスは空の杯を傾け、手背で額の汗を拭う。


 海風が窓辺のカーテンを揺らすたび、寝室に漂う香水と潮の匂いが淡く撹拌される。


「秘書官をやらないか? 机仕事嫌いでさ、誰か居てくれると助かるんだ」


 軽快な声色とは裏腹に、群青の虹彩には揺るがぬ探針が走る。


 オルフェリアはわずかに首を傾け、夜露のような微笑を浮かべた。


「身分照会もせず、面接はベッドで済ませる?噂に違わず大胆ね」


「この国の官吏試験より、ずっと実践的だろ? 嫌なら断っていい」


「引き受けるわ」


 濡れた吐息が玻璃細工のように震え、眼差しの奥でほの赤い野心が瞬いた。


 回廊 ― 白亜の石に映る二人の影


 アーケードに差す朝陽は白大理石を全面に照らし、織り込まれた金の蔓草模様が薄く輝く。


 執事長サヴィンの前に立ったレナティウスは、白衣の裾を翻しつつ女を示す。


「サヴィン、この人を俺の秘書に。部屋と机を頼む」


 低く礼を取る老執事の瞳が、瞬時に女を値踏みする光を帯びる。


 絹手袋の指先が揺れもせず、オルフェリアは完璧な礼節で応じた。


 王子はその白髪に口を寄せ、声量を霧のように絞る。


「身分を洗ってくれ。影犬(かげいぬ)にも伝えろ。足は付けるな」


「御意に」


 返答は刻んだ大理石より硬い。


 王子が去ったのち、サヴィンは女を柔和な笑みで導きつつ、内心で無数の検証ルートを展開していた。


「手始めに執務室へ。殿下の書類は……存外、手強いですよ?」


「愚人が散らかした机ほど、整理の妙味があるわ」


 穏やかな応酬の裏で、互いに刃の硬度を測り合う。

 長い回廊を進むたび、ステンドグラスが赤と碧の斑紋を二人の影に滴らせ、その交差がゆっくり絡みつく。


 執務室へ通される前に、

 サヴィンは「風通しが良い」と称し、

 木漏れ日の中庭で軽い朝餉を勧めた。


 噴水の水滴が陽光で散弾のようにきらめき、遠くの防波堤でカモメが啼く。


 純白のクロスに置かれた銀食器は、昨夜の残響を映さぬほど磨かれている。


 オルフェリアはハーブ茶を口に含みながら、執事の視線が自分の指の動き、カップの角度、呼吸の深さまでも測っているのを感じ取った。


「殿下は自由闊達に見えて、内実たいへん繊細でして」


「ええ、昨夜ずいぶん丁寧に“気配り”を受けたわ」


「それは……さぞ」


 サヴィンの笑みは皺の奥で鋼の線を走らせる。

 オルフェリアはカップを置き、無色の瞳で返す。


 隠微な緊張が噴水の水音に溶け、二人は互いに呼気の温度を読み取る。


 その刹那、回廊の向こうで銅鑼が低く鳴り、王城の朝礼開始を告げた。


 玉階 ― 王宮へ向かう足取り


 昼が近づく頃、石畳を挟んで御者付きの曳馬が並ぶ。


 王子は白地に藍の縁取りが入った軽外套に着替え、女に手綱を示す。


「馬車より歩く方が早い。ついて来い」


(逃走経路を確かめるつもりか)オルフェリアは内心微笑し、歩幅を合わせた。


 王都の大通りでは、祭の余韻を残した花弁が舗道に散り、露店の布幕を畳む音が遠く途切れ途切れに響く。


 王子は道行く高官に笑顔で挨拶しながら、女を巧みに視界の死角へ誘導する。


 それは護送か、あるいは囮か。


 途中、影犬隊の密偵が雑踏に紛れて目配せを送り、

 王子はわずかに頷く。


 女の後方に流れる視線の網が、何重にも折り畳まれていく。


 蜘蛛の糸はつねに静かに張られる。


 王城内の従者控室に、オルフェリアを留めて置くと、その足で宰相の元に向かう。


 白髪の宰相ギュスターヴ・レブランは、


 巻物と帳簿の塔に囲まれ、硯から立つ墨香を深く胸に収めていた。


 扉を蹴破るように王子が飛び込み、古い床板に土埃を散らせる。


「ギュス、話がある」


「殿下、靴跡が、で、何用です?」


 外套を翻し、王子は短く言い放つ。


「秘書を雇った。昨夜拾った子だ」


 ギュスターヴの銀縁眼鏡が光を弾く。


「秘書?」


「ああ、あれは、ジョルトで父上を狙っていた女だろうな。俺が仕込み武器を壊した女だ。間違いない」


「な、そのような輩を手元に置くなど、危険極まりないですぞ」


「分かってるて、だから頼む」


 宰相は眼鏡越しに王子を睨み、それから小さく頷いた。


「王の周辺警護はこちらで増員し、万が一に備えましょう」


「助かる。頃合い見て尻尾を掴むさ。

 毒でも刃でも、先に出してもらった方が楽だろ?」


 王子は屈託のない笑顔を浮かべ、踵を返す。 


 その背が扉の向こうに消えた瞬間、宰相は机の下で拳を握り、古い心臓に重たい鼓動を抱え込んだ。



 屋敷バルコニー ― 夕陽と揺れる影


 藍から茜へ、茜から紫へ――王都湾を染め上げる陽が尖塔の背後へ沈む頃、オルフェリアは新調された秘書服の襟を正し、微風に靡く王国旗を見据えていた。


 書斎の陰で王子はグラスを傾け、真紅の液面に彼女の背影を映す。


 室内に灯るランプが二人の輪郭を遠く隔てながら、影と影を重ね合わせてゆく。


 ──夕陽が海へ溶け、薄闇の初灯が街を点描する。


 盤上には、新たな駒が静かに置かれた。

 表も裏も纏うその駒を、誰が先に動かすか――

 夜の帳が落ちるとき、静寂はさらに深く、しかし刃のきらめきだけが息を潜めて待っている。



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