第二話 第二王子
白光が差し込む窓辺で、ペン先が羊皮紙を滑る音が静かに響いていた。
《王立学士院・北棟特別室》。
ここは王族のためだけに開かれた書室であり、選ばれた者にのみ与えられる沈黙と知の聖域だった。陽光は磨かれた窓から薄金に差し込み、整然と並んだ書架には歴代の法典・哲学書・歴史記録が眠っている。
その中央に座す一人の青年――第二王子セラディウス・イン・グランパルマは、銀製のペンを持つ手を一切ぶらさず、薄く開いた唇から設問をゆっくりと読み上げていた。
「問い。王権の正当性は、血統によって証明されるか、それとも能力によって担保されるか」
声に抑揚はなかった。だがそこには澱みも迷いもない。
彼の文字は美しかった。細く、しなやかで、語句の切れ目も滑らか。
一度書いた文字を訂正することはない。思考はすでに整理されており、筆はただそれを紙へと写すだけの行為だった。
『王権の正当性とは、民衆による承認と伝統による保証、その二つの支柱に基づいて成立する。
血統は後者を担保し、能力は前者を維持する。ゆえに、王たる者は“生まれ”と“ふるまい”の両輪を備えねばならない。
血筋にあぐらをかく者は民の信を失い、能力だけに頼る者は歴史の支えを失う。』
ペンを置くと、セラディウスは手元の羊皮紙を整え、余白に注釈を記す。
その所作は端整だった。急ぎすぎず、遅すぎもせず、全ての動作が“正しい”速度と角度を保っている。
学びとはこうあるべき――彼の姿はまさに、それを体現していた。
セラディウスの姿勢には一分の乱れもなかった。
朝食後の整髪は完璧に施され、絹のチュニックは皺ひとつない。学士章のついた外套は、折り目に至るまで整っていた。
王子である前に、一人の“模範”として振る舞う――彼にはその自覚がある。
(王座とは、高さではなく、在り方にこそ意味がある)
それは誰かに教えられたものではなく、自らに課した哲学だった。
幼いころから、兄レナティウスが剣も学問も疎んじ、日々を浪費するように生きる姿を見てきた。
その影で、自分はただ「正しくあろう」と努めてきた。
振る舞いを乱さず、言葉を選び、身分に見合うだけの知識を備え、臣下や教師たちの敬意を裏切らないように。
民の期待を汚さぬように。
そしていつか、王となった時に誰の信も損なわぬように。
扉が静かに開いた。
入ってきたのは廷臣、従騎士カイル・ルヴェラン。
緋の制服に身を包み、銀の胸章が朝日を淡く弾いた。
「殿下、ロイヤル・ジョスト決勝戦の結果が届きました」
「……結果は?」
「第一王子、レナティウス殿下が優勝なさいました」
セラディウスは顔色ひとつ変えず、ゆっくりとペンをインク壺に戻した。
「兄上が……黒獅子アガルドを破ったのですか?」
「はい。ただ……酔ったまま馬に跨がれ、槍の扱いも……目撃した者の多くが“偶然の勝利”と申しております」
しばしの沈黙。
セラディウスは視線を僅かに落とし、整えた答案用紙の端を揃えた。
「民は、軽きものを好みます。
愚者を祭り上げるのは、いつの世も変わらぬものです」
カイルは黙して頷いた。
誰の悪口も言わず、誰の手柄も否定しない。だが、王子の言葉は確かな真理として耳に残った。
「兄上は、学びを知らず、剣を取らず、礼を欠きます。
それが“第一”として国に記されているのは……悲しむべき事実でしょう」
セラディウスは立ち上がる。
机を片づける手つきすら洗練されており、まるでその所作に“国家”の重みすら背負っているかのようだった。
学士院の回廊を出ると、朝の光が白壁に反射して眩しかった。
セラディウスが歩みを進めるたび、青と金を配した王子章が胸元で揺れ、その後ろを従騎士カイルが静かに従う。
曲がり角の前で、若い貴族たち――セルヤ侯家の嫡子ロレンツォ、公爵家の娘リュシア、文官預補のフェーンらが待ち受けていた。華やかな衣装に身を包んだ一行は、一様に笑みをたたえ、王子の前で優雅に膝を折る。
「セラディウス殿下、本日のご学業もご立派と伺いました」
「昨夜の祭では第一王子殿下が勝利なさいましたが、私どもは殿下こそが真の王者と信じております」
「いずれ王座にお就きの際には、どうか我ら若輩をお側に――」
彼らの眼差しには、敬意と期待が交錯していた。
セラディウスは小さく手を上げ、過度な跪拝を制した。
「皆、頭を上げてください。私はまだただの王子です。
学びに励み、この国のために役立つことがあれば――それが私の喜びです」
その声色は柔らかく、謙虚でありながら威厳も帯びていた。
若き廷臣たちは顔を輝かせ、さらに深い忠誠を誓う。
「殿下のご高名は宮廷でも広く伝わっております」
「兄王子殿下とは別のご立派さ――礼節と知性こそ、我らが求める王の姿にございます」
セラディウスは微笑を崩さず、ゆっくりと頷く。
その表情は誇り高く、だが決して驕りは見せない――少なくとも、周囲の目にはそう映った。
午前の王務評議の刻。
王宮の大理石床を抜け、天井のフレスコ画に月桂と双翼の鷲が描かれる謁見の間へ。
フェルヴィオ四世はまだ公の場には姿を見せていなかったが、執務官たちが国政報告のために集まっていた。
廷臣の視線が一斉に向く。
セラディウスは玉座の前で静かに一礼し、準備してきた書簡を差し出した。
「――王都北部の穀倉地帯で今年、蝗害の兆しが報告されています。
私は農政局と協議し、収穫税の一部を前倒し減免した上で、被害地の代替種子購入を王室基金から援助する案をまとめました。
今こそ王家が直接、民へ寄り添うべき時と存じます」
執務官たちが顔を見合わせ、重々しく頷く。
誰も異議を唱えない。文面の整合性、財務の裏付け、すべて完璧だった。
――その背後、玉座の手すりの陰から、ひそかにフェルヴィオ四世が現れた。
老王の瞳には深い影と、わずかな憂い。
「見事な提案だ、セラディウス」
「恐れ入ります、父上」
「だが一つ、問うておこう。減免となった税の補填をどうする?」
「交易港への入港料を時限的に引き上げ、加えて王都の贅沢品関税を一部増税いたします。
三年で原状回復し、以降は民の収穫増による市場拡大で歳入を上乗せできる計算です」
即答だった。
老王は唇を結び、短く頷いて背を向ける。その顔を見た者はいない。
執務官たちは感嘆のさざめきを交わした。彼らの目に映るセラディウスは、冷静で、聡明で、そして慈愛に満ちた理想の“次代の王”そのものだった。
謁見の後、光のない廊下を歩きながら、セラディウスはカイルにだけ聞こえる声で呟いた。
「兄上の“偶然の勝利”に宮廷が沸き立つのは一夜限り。
私の務めは、次の夜明けを担保することだ」
彼の歩みは真っ直ぐ。
壁に掛けられた王家の歴代肖像の前を過ぎるたび、燭台の火がその横顔を照らす。
光は彼をより完璧に――まるで絵画のように映し出した。
(私こそが冠を正しく戴く者。この国は、理性と秩序のもとにこそ繁栄する)
それが疑いの余地なき真実であると、彼は信じていた。
扉の向こうで祝宴の太鼓が響く。兄王子の名が喝采の中で叫ばれている。
それでもセラディウスの胸には、揺るぎない焔が静かに燃え続けていた。