第一話 月光の槍と白き愚者
湾の奥から立ち上がる潮気と、祭の香りが交じり合う。グランパルマ王都を抱く大湾は、夏至祭の夜を迎えていた。丘を包む白壁の街並みは、提灯に灯された赤と金の灯火に染め上げられ、石畳には水と葡萄酒のしずくが染み込んでいる。
燻された仔羊肉、焼き栗、火酒に浸けた蜂蜜菓子。鼻をくすぐる匂いは、賑わう屋台の列からどこまでも流れ出ていた。
旅芸人が火輪を掲げて三弦を奏で、楽師の子らが銀の鈴を鳴らして回る。
王都の心臓――《ハルバルク・コロッセオ》の上空では、まだ月は顔を出していない。だが、観客席にはすでに八万を超える民が詰めかけていた。年に一度の《王室騎馬槍試合》、ロイヤル・ジョスト決勝戦の開幕を待っているのだ。
会場の最上段、王室桟敷の中央には、王座が設けられている。だが――そこにはまだ、主がいない。
「……玉座が、空席のままです」
近衛隊列に加わったばかりの若い騎士、グレイス・ハロルドは兜の顎紐を外したまま、王室桟敷を見上げた。
夕刻の金陽に照らされた深紅の天蓋。その下には黄金で縁取られた碇の紋章と、月桂冠を刻んだ高背の玉座。
だが、その椅子には誰も座っていなかった。
「陛下は今宵、御聖体の不調で参列を控えられると、そう通達されている」
列の先頭で槍を持つ隊長が言った。
だが、その目は桟敷よりもさらにその奥――競技場の周囲に配された兵の配置を見回している。
「ですが……授賞式は、陛下自らお出ましになると告知されていたはず」
「そうだ。だから、民も貴族も皆集まっている」
隊長は言葉を切り、少しだけ声を潜めて続けた。
「だがなハロルド。王があの席に座らぬときは、二つしかない。
一つは病、もう一つは……暗がりの牙を警戒するときだ」
その言葉の意味を、グレイスはまだ知らなかった。
ただ、喉の奥に引っかかった石のような違和感だけを抱きながら、視線を競技場の中央へと落とす。
王家が定めた騎馬槍試合の決勝戦が始まろうとしていた。
競技場地下の控えテント――。そこには悲鳴と怒声と、薬草と血の匂いが入り混じっていた。
「どういうことだ!? なぜランバートが棄権など!」
書見台を叩いたのは、競技祭を統括する王室宰官、エルネスト・セルヴァ。
机上には賭け金総額の報告書と、各家臣団の騎乗登録票、そしてぐしゃぐしゃに丸められた棄権届が置かれていた。
控え台の隅では、金髪の騎士が膝を抱えてうずくまっていた。
《蒼翼のランバート》。決勝進出者にして、宮廷が誇る若き将軍候補。だが、馬の後ろ脚に蹴られ、膝蓋骨を砕かれた彼は立つことすらできない。
「偶発事故です! 蹄鉄の一部が外れて……制御が効かなくなって……!」
騎乗係が震える声で弁解する。だが宰官の怒声は止まらない。
「このままでは決勝戦が中止だぞ!? この場にいる誰がそれを民に説明する!? 八万の目と、四千万レアトルの賭け金が動いているのだ!」
兵士が報告を持って駆け込む。
「控え資格者は――爵位持ち、騎乗許可済み、かつ補欠登録済み……該当者は一名のみ!」
エルネストが書類を奪い取って目を走らせ、そして顔を引きつらせた。
そこに記されていた名前は――
『第一王子 レナティウス・イン・グランパルマ』
書記官たちは顔を見合わせた。ざわめきが控え所を満たす。
まさか、王室の汚名を着せられた“あの男”を競技に出すのか?
そのとき。鈍い音とともに、外の木樽が転がる音がした。
「ひゃっははは! 騎馬槍試合、今日だったのか? ちょうどよかったわ!」
控えテントの幕がはためき、入り込んできたのは、白い狩猟外套を羽織った一人の青年。
千鳥足で歩きながらも、目だけが異様なほど澄んでいた。頬は酒精で赤らみ、手には空になった葡萄酒瓶。金髪は風に散らされ、額には皺もなく、どこか無垢な微笑を浮かべていた。
第一王子――レナティウス・イン・グランパルマ。
騎士たちが目を見開き、ある者は嘲笑を、ある者は哀れみを含んだ視線を送る。
宰官エルネストが蒼白になって立ち上がる。
「で、殿下……なぜこちらに!?」
「決まっとるだろう? 決勝が中止になっちゃ王都が冷える。儂が代わりに出ればええ」
床に転がっていた槍の一本を、レナティウスはまるで箒でも拾うように軽々と掴み上げた。
木製の穂先は泥が固まっており、柄には亀裂が入っている。粗雑な予備槍に過ぎない。
「賞金はいくらじゃ?」
「し、四千レアトル金貨……そして副将任命状が……」
「副将? いらん、いらん。借金が返せりゃ、それでいい」
冗談めいた台詞に場が凍る。
だが王子の声は真剣だった。乾いた笑みの奥に、何か計算があるなどとは誰も気づかない。
エルネストは顎を引いた。控え登録の記録には、たしかに王子の名があった。
それは形式だけのものだったはずだ。万一のための、決して実行されることのない名目。
だが今、白衣の男はその「万一」を実行しようとしている。いや、もしかしたら、最初から“これ”を狙っていたのではないか? そんな考えが一瞬、宰官の頭をよぎった。
だが彼は、何も言わず羽根ペンを手に取り、補欠出場者の欄に王子の名を書き記した。
満月の銀色の光が競技場の砂に降り注ぐ。旗手がラッパを吹き鳴らし、八万の歓声がうねりを作った。
西ゲートから現れたのは、漆黒の甲冑に身を包んだ《黒獅子のアガルド》。
堂々たる体躯。槍を立て、騎乗した馬を制す姿は、さながら獣の王の風格を帯びていた。
対して東ゲートから、白衣を羽織った王子がふらふらと登場した。
馬の腹にまともに脚を通せておらず、手綱は左手のみ、槍は肩に担ぐだけで持ち方すら怪しい。
観客席に笑いが起こる。
「またあの愚王子か!」
「馬から落ちる前に自分の心臓突き刺しそうだな!」
「金貨のためか? 哀れなものよ」
賭け屋では、勝敗倍率が急変した。
アガルドに全額賭ける貴族が行列を成す一方で、「王子が勝ったら奇跡だ」と笑う者もいた。
合図の角笛が、夜空に鳴り響いた。
漆黒の馬が砂を蹴る。真っ直ぐな軌道を描き、獅子のごとく突進する。
白馬は……右へ、左へ、蛇行しながら進んでいる。レナティウスは「よしよし、真っすぐ行け」と呟きつつ、鞍にしがみつくように姿勢を保っていた。
観客席がざわめく。
次の瞬間、二騎は交差する。
黒獅子の槍が白衣の胸元を正確に狙った。
だが――王子の粗槍が、ふらりと揺れたその瞬間。
まるで風に吹かれたように、敵の槍穂をはたき上げたのだ。
ガン!
鈍く、だが確かに金属同士がぶつかる音。
その反動でアガルドの身体がわずかに浮いた。重い甲冑の重量が仇となり、バランスを崩す。
鞍から身体が浮き、黒獅子が宙を舞った。
砂塵が舞い、地に叩きつけられた音が響いた。
「――っ落馬! 試合終了! 勝者は――」
「第一王子レナティウス・イン・グランパルマ殿下ァァァァァ!!」
場内が爆発した。歓声、悲鳴、怒号、笑いが一斉に弾けた。
レナティウスは両手を掲げ、よろよろと馬上で立ち上がり、槍を大きく振った。
その槍の穂先が、最前列の黒マントの貴婦人の手に持った扇に当たった。
レナティウスは砂に染まった白衣をはためかせながら、馬上で軽く旋回した。
酔いどれの振る舞いにしか見えない不安定な動き――だが、槍を振った拍子に、穂先が前列の観客席に伸びた。
パキン。
軽いが鋭い音が、まるで空気を切るように響く。
砕けたのは、黒マントを羽織った一人の貴婦人の扇だった。
深い赤の布地に金糸で月を刺繍した美麗な細工扇。裂けた布の間から、銀色の細い棒状の金属――針が一本、観客席の隙間に滑り落ちた。
周囲の者たちはただ「王子の粗相で扇が壊れた」と笑い、顔をしかめる。
だが、扇の主は違った。
黒マントの貴婦人――変装した暗殺者〈オルフェリア〉は、折れた扇を静かにたたみ、何も言わず立ち上がった。
護衛に助けを求めるでもなく、怒りを露わにするでもなく、ただしずかに、まるで初めからそこにいなかったかのように観客の波のなかへ消えた。
その去り際、彼女はほんの一瞬だけ、馬上の王子に目を向けた。
レナティウスは酔ったふりで馬にしがみつきながら、彼女の視線を鋭く受け止めていた。
その口元に、誰にも見えない微かな笑みが浮かんだ。
桟敷裏。
王の進退を護る近衛総隊長が、列の先頭で制止の手を掲げた。
「陛下、申し上げます。観客席の混乱により、安全の確保が不可能と判断されました。さらに、第一王子殿下が貴婦人の顔面に槍を――」
「……またあの馬鹿者が」
フェルヴィオ四世は静かに額を押さえ、目を閉じた。
「暗殺の気配があったか?」
「確証はありませんが、可能性はございます。」
「……よかろう。授賞式は後日に延期せよ」
その言葉が伝えられると、王座前の桟敷では口上官が高らかに叫んだ。
「本日の授賞式は、王命により中止と決定された。正式な副将任命は後日執行とする!」
観客席からは怒声と落胆のため息。
だが、白衣の王子は構わず馬から降り、笑いながら退場口へふらつく。
しかし――
日陰へ踏み込んだ瞬間、彼の足取りから酔いの揺れが消えた。
彼は袖に隠した扇の破片を取り出し、裂け目からのぞく細い金属筒を静かに確認した。
それは毒針発射機構――仕込まれた袖扇暗器。
竹骨の一本には、まるで見えないほど細い矢倉が仕込まれており、射出機構の引き金部分はすでに破損していた。
「狙撃が駄目なら扇で、か……」
月明かりの下で、王子は針を一本引き抜き、銀の光を空にかざしてぽつりと呟いた。
「二枚刃。どちらも……潰させてもらった」
その夜、港湾区の外れ、廃倉庫。
扇を折られ、任務に失敗した〈オルフェリア〉は一人、闇のなかにいた。
殺気を感じて身を翻したときには遅かった。
背後から近づいた黒衣の男が、無言で短剣を振るう。
それは、彼女を雇った人物が差し向けた“後処理”だった。情報漏洩を避けるため、失敗者を処分するのは常。
白い喉元が一閃され、血飛沫の音が静かな倉庫に響いた。
その後、男は彼女の懐から金銀細工の竹骨だけを抜き取り、扇面の残骸を石床に散らした。
競技場の裏。
清掃係の少年、タビトが黙々と木片やゴミを燃料樽に投げ込んでいた。
「扇まで折って、やっぱあの王子は馬鹿だなぁ」
そう呟きながら、彼は折れた槍の柄、黒い矢の穂先、そしてどこか上品な裂けた扇面を火にくべる。
燃え上がる炎のなかで、竹骨の内部に残っていた針が「チッ」と音を立て、赤く燃え尽きていった。
それは、たった一歩誤れば国王の命を奪っていたかもしれない凶器だった。
灰は風に乗り、夜空へと舞い上がる。
遠くで灯台が海に光を放ち、その光の中に、何かが静かに消えていった。
翌朝、王都中の瓦版屋は賑わっていた。
見出しはこうだった。
『白き愚者、泥酔で黒獅子を撃破! 授賞式を混乱に陥れる!』
市民はゲラゲラ笑い、賭け金を失った貴族は歯噛みし、
人々は口々に王子を笑い、
「あれが次代の王? 冗談ではない」と笑い飛ばした。
だがその下、囲み記事の隅に載った小さな報せに気づいた者は少ない。
『黒衣の婦人、港湾倉庫で変死 身元不明。現場には裂けた扇布と、金細工の骨“のみが失われていた痕跡”』
――誰も知らない。
決勝スタンド天幕裏に狙撃孔が穿たれ、
国王が金杯を掲げる瞬間を待つ毒矢が構えられていたことを。
そして袖扇式の毒針が、王の胸元へ放たれるはずだったことを。
泥酔して乱入し、槍を振るって扇を折り、授賞式をぶち壊した“白き愚者”こそが、
その全てを無効にした張本人だとは――。