1年目6月:第九話「雨の日の調べ」
その日は朝から、しとしとと雨が降っていた。
放課後になっても、灰色の雲は一向に晴れる気配を見せなかった。
「今日の練習、希望者だけでいいよー。ちょっと湿気すごいし、弦も伸びるかもだし」
茉莉先輩の声に、何人かは帰宅の準備を始める。
澪は迷った末、音楽室に残ることにした。
部室には、澪と佐伯先輩、そして箏が3面。
静かだった。外の雨音だけが、かすかに響いていた。
「……弾いてごらん」
佐伯先輩が言った。
澪は、譜面を開く。指に爪をはめて、一の糸に触れた。
ぽろ──ん……
……続くはずだった音が、指の中で途切れた。
「あ……れ?」
もう一度。
だけど、弦が指にまとわりついて、うまく音が出ない。
湿気のせい? それとも、自分の手?
「……ごめんなさい」
澪は、爪を外したままうつむいた。
「……音が出ないと、焦るよね」
佐伯先輩が隣に座る。その声は、澪の不安を見透かしているようだった。
「私もあったよ。中一のとき、発表会の直前にどうしても手が震えて、音が出なくなって……」
「えっ、先輩でも?」
「うん。だからね、わたし、ちょっとだけ“鳴らさない練習”ってのをしたの」
佐伯先輩は、自分の箏を前に置いて、こう言った。
「弾かないで、譜面だけ見て。音を想像するの。自分が出すはずの音を、頭の中で思い描いて」
澪も、先輩にならって爪を外し、手を箏から離した。
目を閉じて、音を想像する。
――ぽろん、ぴん、ぽん。
自分の音が、記憶のなかでそっと鳴っている。
その音は、誰かに聴かせるものじゃなくて、
ただ「自分が自分でありたかった」から出した音だった。
ふと、目を開けた澪は、指をふたたび弦に置いた。
今度は、無理に強く弾こうとしなかった。
ただ、目の前の糸と、心の奥の音を、そっと重ねるように。
ぽろん──
音が出た。
静かで、かすかで、でも澪の胸の奥にふわりと広がる音だった。
「……うん。今の、いい音だった」
佐伯先輩が笑う。
「音ってね、“鳴らすこと”じゃなくて、“感じること”でもあるんだよ」
雨はまだ、静かに降っていた。
でも澪のなかには、すこしだけ晴れ間のようなものが見えはじめていた。