1年目5月:第六話「私の音は、ここにいる」
早朝の音楽室は、まだ誰もいなかった。
校舎全体が眠っているような時間。廊下の足音さえ、やさしく吸い込まれていく。
澪は、思いきって部室の鍵を借りてきた。
“朝練します”とだけ伝えて。誰かと一緒じゃなくて、自分ひとりの時間がほしかった。
箏の前に座る。
何を弾こうか迷ったけれど、まずは一の糸だけを鳴らしてみる。
ぽろん──
きのうよりも、まっすぐに響いた気がした。
「弾くっていうより、“鳴らす”って気持ちでやってみて」
昨日、茉莉先輩がぽつりと言っていた言葉を思い出す。
「箏って、音に気持ちが乗るから。無理にがんばらなくても、丁寧に鳴らせば、それでいいってときもあるんだよ」
澪は、箏の上にそっと手を置いた。
柔らかな絹の弦。張り詰めた静けさのなかで、音が生まれるのを待っている。
ふと、自分の心が少しだけ“澄んでいる”ことに気づいた。
うまく弾こうとか、褒められたいとかじゃなくて。
ただ、今の自分を、音にできたらって。
もう一度、弦に触れる。
音が出る。小さくて、揺れていて、でも確かに“自分の音”だった。
そのときだった。
「……綺麗だった」
驚いて顔を上げると、いつのまにか茉莉先輩が扉の前に立っていた。
「ご、ごめんなさい! 鍵、勝手に──」
「ううん、いいよ。朝の音楽室って、気持ちいいでしょ?」
そう言って笑った先輩は、そっと畳の隣に座ると、自分の箏を準備し始めた。
「一緒に少しだけ、鳴らそっか」
そして、ふたりは言葉を交わすことなく、ただ音だけを重ねた。
やわらかく、遠く、どこか懐かしい音が、二人のあいだをゆるやかに流れていく。
澪は思った。
この音が、誰かの心に届くとしたら──それは、今の自分の全部を肯定してくれるものだって。
「……ちゃんと、届いた音だったよ」
演奏が終わったあと、茉莉先輩がそう言った。
その言葉に、澪の胸の奥が、ふっとほどけていくようだった。
“私の音は、ここにいる”
まだ拙いし、不器用だけど、それでも自分にしか出せない音がある。
それだけで今は、十分な気がした。
その日。音楽室を出た澪は、空の青さに驚いた。
昨日より少しだけ、世界が広くなったように感じた。