2年目8月・第2話「言葉にしない対話」
合宿二日目の午後、音楽室がひとときの静けさを取り戻していた。
午前中の練習が終わり、夕方まで自由時間ということで、茉莉と宮下は近くの川辺へ散歩に出ていた。
澪は、ひとり畳の上に座っていた。
譜面を見つめるだけで、指が動かない。
あの曲の「重なり」が、昨日からずっと遠く感じていた。
ふと、ふすまが開いた。
「……いたんだ」
入ってきたのは、亜季だった。
いつも通り、感情の読めない瞳。
「あ……うん。ちょっとだけ、考えたくて」
「私も、弾こうと思って」
それだけ言って、亜季は箏の前に座る。
チューニングもせず、静かに爪をはめる。
「……合わせる?」
「……うん」
譜面は開かない。合図もない。
ふたりは、ただ音を出した。
亜季が一音を鳴らし、澪がそれに寄り添う。
いつもなら焦ってタイミングを合わせようとする澪の指が、今日は自然と亜季の余韻に重なっていた。
風が窓から入り、風鈴が静かに鳴る。
その音まで含めて、二人の旋律は流れていく。
言葉はなかった。
けれど、音が語っていた。
「昨日のあなたの音、迷ってた」
「私の音は、少し強すぎたかもしれない」
「でも、きっとどちらも間違ってない」
「ただ、“聞こう”としてなかっただけなんだ」
そんな思いが、たしかに流れていた。
最後の一音を弾き終えたあと、しばらくふたりとも箏の前で沈黙していた。
澪がぽつりと呟く。
「……さっきの、録音しておけばよかった」
亜季は微笑みもせずに、ただ静かに頷いた。
「たぶん、もう二度と同じふうには弾けないね」
でもそれは、少しも寂しい言い方ではなかった。
“その時だけの音”を、ふたりは確かに分かち合った。
言葉にしなくても、響いたものがあった。
音楽室の外で、川の流れる音がかすかに聞こえる。
ふたりの距離が、ほんの少しだけ、音の分だけ近づいたような気がした。




