1年目5月:第五話「音をなぞる手」
放課後の音楽室。窓の外では、ツバメが低く飛んでいる。
季節は、ほんの少しずつ、夏に向かっている。
「ねえ、それって意味あります?」
突然そんな声がして、澪は顔を上げた。
音楽室の入り口に立っていたのは、見たことのない男子だった。
黒髪で細身、制服の上にパーカーを羽織っている。少しけだるげな表情。
「宮下陽って言います。見学いいっすか?」
先輩たちが歓迎するなか、彼は箏に視線を向けて言った。
「これって、なんか……正座して爪はめて、指でポンポンって……ぶっちゃけ、基礎練って意味あるんすか?」
部室が、ふっと静かになる。
そのとき。
畳の向こうで黙々と調弦していた亜季が、声を出した。
「あるよ。意味しかない」
低く、はっきりとした声だった。
宮下が少し驚いたように首を傾げる。
「そっすか? まあ、ギターなら好きに弾いてナンボだし、指動かすのもコード覚えるくらい……」
「箏は違う」
亜季の手は止まっていない。でも、言葉はまっすぐだった。
「ちゃんと“聴こう”としないと、音は出てこない」
「……ふうん」
宮下は興味深そうに笑い、窓際に座り込んだ。
澪は思わず、亜季の横顔を見つめていた。
いつも無表情で、言葉も少ない。
だけど今の彼女には、箏の音と同じくらいの強さがあった。
(……かっこいい)
でも、同時に胸の奥がちくりとした。
自分は、まだそんなふうに「音を信じてる」と言えない。
亜季との距離が、また少し広がった気がして。
その日の練習が終わったあとも、澪は残っていた。
もう一度だけ、と思って弾いた一音は、やっぱりどこか薄っぺらだった。
何かが足りない気がするのに、何を足せばいいのかわからない。
「……なぞってるだけだな」
小さくつぶやいたその声に、誰かが応えた。
「でも、それも一歩よ」
佐伯先輩だった。帰り支度をしていたはずなのに、澪の背後にそっと座っていた。
「音を“なぞる”だけの時期って、あるの。でもね、耳はちゃんと育ってる。聴くってことを続けていれば、ある日ちゃんと“鳴らせる”ようになるのよ」
澪は、はっとして自分の手を見た。
ただ動かすだけじゃない。
聴くこと。感じること。
音を通して、誰かに近づいていくこと。
「……はい」
静かに返事をして、もう一度だけ弦に指をかける。
そして目を閉じて、ゆっくりと音を出した。
ぽろん。
今の音は──さっきより、少しだけ近くにいた気がした。