2年目8月・第1話「静かなズレ、届かない音」
山の上に建つ、築五十年の合宿所。
木造の廊下に風が吹き抜け、畳の部屋に差し込む光がやけに柔らかく見えた。
「じゃあ、午前中は合わせの練習ね」
茉莉の号令で、部員たちは箏の前に座る。
文化祭で演奏するオリジナル曲――澪が作った《風に乗せて》。
いよいよ、それを本格的に練習する合宿が始まった。
けれど、出だしから音は揃わなかった。
「……ごめん、ちょっとズレた」
「ここのタイミング、揃いづらいね」
「いや、そもそも構成が甘いんじゃ……」
澪は、譜面を見つめながら指を止めた。
音が、重ならない。
旋律が、ばらばらに泳いでいく。
耳に入ってくるのは、他人の“音の強さ”と、自分の“音の弱さ”ばかりだった。
「このパート、主旋律に合わせて弾くって感じでいいの?」
宮下が、軽い調子で訊いてくる。
「う、うん……でも、少し“余韻”を意識してもらえると、響きが柔らかくなるかも」
「なるほど。でも、それってコード感も作らないと弱くない?」
「え、コード……?」
亜季が、そっと口を挟んだ。
「宮下くん、あまり変にハーモニーつけすぎると、箏本来の響きが濁るよ」
「え、そうかな? ちょっとオシャレになるかなって思ったんだけど」
「それ、ギター感覚でしょ。箏の“間”は、そこじゃないよ」
少し、空気が冷える。
茉莉が笑ってごまかした。
「まあまあ、合宿の初日から険悪モードは禁止。ね?」
でも、その後の合わせも、音はそろわなかった。
気持ちが、どこか噛み合っていない。
“自分の正解”を信じるあまりに、互いの音がぶつかっているように思えた。
夜。練習後、澪はひとり縁側に座っていた。
草の匂い、虫の声。
風鈴が、カラリと鳴る。
「……なんで、うまくいかないんだろう」
呟いた声は、自分の胸にだけ返ってきた。
自分が作った曲なのに、自分の音さえも見失ってしまいそうになる。
それぞれが思い描いている“良い音”が、少しずつ違う。
“伝えたい”と思えば思うほど、
ズレていくようで、怖かった。
膝の上でスマホを取り出し、録音アプリを起動する。
風鈴の音を、そっと保存してみた。
――この“風の音”だけは、誰にも邪魔されずに鳴っている。
そんなことを思いながら、澪はもう一度、夜の帳に沈んだ練習曲を口ずさんでみる。
でも、音は――まだ、揃わなかった。




