2年目7月・第2話「ひとりひとりの“箏”」
土曜日の午前、音楽室はがらんとしていた。
部活動は自主練習日。誰が来ても来なくてもいい日――けれど、澪はいつも通り畳の上に座っていた。
目の前には、自分の箏。
静かに、何度も同じフレーズを繰り返す。音が、少しずつ自分の中に沈んでいくように。
だけど。
――今日の音は、少しだけ冷たい気がした。
文化祭の曲。何を弾くべきなのか。誰の想いを、どんな音で届けるのか。
その答えが出ないまま、澪の指は止まった。
「……悩んでる顔してる」
声がして、顔を上げると亜季がいた。
鞄を置いて、黙って自分の箏の前に座ると、何も言わずに弾き始めた。
音が、違った。
いつもより少し硬く、でも、はっきりとしていて。
「……昨日の会議のこと、まだ怒ってる?」
澪が小さく聞くと、亜季は手を止めないまま、静かに言った。
「怒ってるわけじゃない。ただ、ああいう“勢いのある音”ばかりが評価されるのって、ちょっと……悔しいなって思っただけ」
「うん……」
「箏って、本当はもっと繊細で、奥行きがあって。
それを知ってもらいたいって、私は思ってたから」
音がふ、と止まる。亜季が少し笑った。
「でもさ、きっと宮下くんも、同じなんだよね。届けたいって思ってることには、変わりない」
その言葉に、澪は少し驚いた。
てっきり、亜季はまだ宮下のことを“敵”のように思っているのかと思っていた。
「……そっか、そうだよね」
そのとき、ふいに扉が開いた。
「うわ、ちゃんと来てるじゃん、真面目か~」
宮下だった。手にはタブレット。
「ちょっと試したいアレンジがあってさ」と言いながら、部屋の隅に座り、自分のイヤホンで音を確かめはじめる。
澪と亜季は顔を見合わせる。少し気まずい空気。
でも、もう言い争う気配はなかった。
しばらくして、澪はそっと自分の譜面に目を落とす。
――「伝える」って、どういうことなんだろう。
伝統を守ること。新しい風を吹かせること。
人の心に何かを残すこと。
その全部が、たぶん間違ってない。
でも、正解でもない。
だからこそ、「自分の音」が必要なんだと思った。
この指で、どんな音を鳴らすのか。
何を届けたいのか。
箏の前に座るたびに、それを問い直さなきゃいけないのだ。
その夜、自宅の自室で。
澪はふと、タンスの奥から古いCDを取り出した。
佐伯先輩たちが去年の文化祭で弾いた、オリジナル曲の録音。
再生ボタンを押す。スピーカーから、懐かしい音が流れる。
繊細で、でも芯のある、あの音。
目を閉じると、情景が浮かんだ。
舞台の上の光、観客のざわめき、緊張する背中、仲間の音、空気の震え。
――あのとき、私は泣いたんだ。
演奏の終わりに、理由もなく。
それは、誰かの音が「まっすぐ届いた」からだった。
「……そうだよ」
澪は、そっと呟いた。
誰かに届けたい音じゃなくて、“私が”届けたい音を、見つけよう。
それが、全部の始まりになるかもしれない。




