2年目・5月・第3話「ふと、届いた音」
金曜日の放課後。
音楽室の障子を開けると、澪は思わず足を止めた。
新入生の一人、栗原ほのかが、一人で黙々と箏に向かっていた。
体を小さくしながら、でも、丁寧に一音一音を確かめるように。
「あ……ごめん、びっくりさせた?」
澪が声をかけると、ほのかはぱっと顔をあげて、目を丸くした。
「い、いえっ、先輩こそ、練習……ですか?」
「うん。ちょっとだけね」
二人して箏の前に並ぶ。音楽室の中は、いつもより少しだけ静かだった。
誰かがいない、というより、“音が待っている”ような静けさ。
「……先輩の音って、なんか、落ち着きますよね」
ふいにほのかがつぶやいた。
「え?」
「この間の練習のときも……全体練習で、先輩の音だけ、ちょっと後ろから届いてきて……。
なんていうか、静かだけど、安心するっていうか……」
胸の奥が、かすかに震えた。
落ち着く? 安心する?
それは「上手い」とか「正確」って言葉とは、ぜんぜん違う。
「……私、ずっと悩んでたんだ。自分の音が“薄い”って。誰にも届いてないって思ってた」
言いながら、自分でも驚くほど素直な言葉が出た。
ほのかは一瞬きょとんとしてから、小さく笑った。
「届いてましたよ。ちゃんと」
その笑顔は、どこか去年の澪みたいだった。
まだ頼りないけど、音を信じたいと思っている――そんな目。
澪は、箏の弦に指をかけた。
そして、短い旋律をひとつ。風のように、やわらかな調べを。
練習じゃない、確認でもない。ただ、今の自分で、音を鳴らすだけ。
ほのかが、その音にそっと重ねた。
ぎこちないながらも、どこか響き合っている。
“届いた”って、こんな感じなのかな。
上手く弾けなくてもいい。技術じゃなくて、心がそこにあれば。
ほんの少しだけでも、誰かの中に何かが残るなら——
指が、止まらずに進んだ。
初めて、心が軽くなるのを感じながら。




