2年目・5月・第2話「比べること、比べられること」
部室に早めに入った澪は、箏のチューニングを終えると、ぽつりと座り込んだ。
窓の外はよく晴れていて、校庭のツツジが濃い赤紫に咲いている。
けれど、胸のなかは、どこか曇っていた。
「──澪、見て。あの子すごい」
茉莉先輩の声に顔を上げると、畳の反対側で練習していた新入生が、
軽やかにフレーズを弾き終えたところだった。
まだ入部して一か月も経っていないのに、その手の動きは滑らかだった。
音の出し方も正確で、テンポも安定している。
「……すごいね」
口元で笑ってみせる澪の声は、自分でも少しだけ沈んで聞こえた。
先輩になって一ヶ月。教える側になったけれど、
自分の“音”に自信が持てない日々が続いていた。
隣では亜季が、相変わらず淡々と練習している。
フレーズの一音一音が、研がれた刃のように鋭くて美しい。
比べてしまう。
あの子とも、亜季とも。
いつも、自分の音がいちばん“薄い”気がしてしまう。
「上手な後輩が入ってくれるのは嬉しいけど、ちょっと焦るよね」
休憩中、澪がぽつりとつぶやくと、茉莉先輩は笑った。
「うん、わかる。でもね、比べて焦るってことは、真剣に向き合ってるってことだよ」
「……でも、比べるのって、よくないって言われませんか?」
「ううん、比べていいの。ただし、相手じゃなくて――昨日の自分と」
茉莉先輩のその言葉は、やさしいけれど、すこし遠く感じた。
昨日の自分。
……昨日より、成長できてるのかな。
放課後。誰もいなくなった部室に残り、澪は一人で箏を抱えた。
フレーズをなぞる指が、重たい。
何度やっても、音が響かない。
響いているはずなのに、胸の奥に届かない。
「上手くなりたい」と思えば思うほど、自分の音が苦しくなる。
廊下の風が、ふと、掛け軸を揺らした。
「和敬静寂」の文字が、かすかに影を落とす。
——比べること。
——比べられること。
——そして、自分で自分を責めること。
「……こんな音じゃ、誰にも届かないよ」
そうつぶやいて、箏から手を離した。
爪が、畳に落ちるかすかな音だけが、部室に残った。




