2年目・5月・第1話「止まったままの指」
午前の光が、畳の上に細い筋を描いていた。
新緑の風が音楽室のすだれを揺らし、外では誰かの笑い声が遠く響く。
けれど澪の右手は、音を鳴らせずに止まっていた。
「……もう一回、いきます」
呟くように言って、同じフレーズを爪にかける。
けれどまた、指が引っかかるように止まる。音が転んでしまう。
「澪先輩、大丈夫ですか?」
近くで練習していた新入生が、心配そうにのぞき込んできた。
澪はすぐに笑ってみせる。「うん、大丈夫。ちょっと手が……疲れてるだけ」
本当は、手じゃない。
弾けないのは、音じゃなくて、気持ちのほうだ。
――なにか、止まってしまったままだ。
技術は、たしかに少しは上がっているはず。
だけど、思ったような音が出ない。指が追いつかない。
去年の自分と、何が変わったのかもわからない。
「澪、ちょっと休憩しなよ」
茉莉先輩がポットにお湯を入れながら声をかけてくれた。
澪は素直に箏から離れ、廊下に出る。廊下のガラス越しに見えるグラウンドは、
汗を光らせる運動部の活気に満ちていた。
「……私、ぜんぜん、進んでないな」
口の中で小さくつぶやく。
そのとき、となりに立っていた宮下が、唐突に口を開いた。
「澪先輩って、合唱やってたんですよね」
「え、うん……そうだけど?」
「なんか、そういう“音の感じ方”する人なんだなって思ってました」
「どういうこと?」
「うまく言えないんですけど……澪先輩の音って、すこし間があるじゃないですか」
「……え?」
「でも、その“間”って、僕はけっこう好きなんですよね。
音って、“上手く弾けるかどうか”より、“どう聴こえるか”だと思ってて」
宮下は照れたように笑いながら、自分の爪をくるくると回した。
ギターで培ったセンスなのか、それともただの感覚派なのか、澪にはうまく測れない。
でも、その言葉だけが、不思議と胸に残った。
――“できる”じゃなくて、“感じる”もの。
箏は、譜面通りに音を出すだけの楽器じゃない。
そうわかっているはずなのに、いつの間にか「できる・できない」の基準に
縛られていたのかもしれない。
ふと、少しだけ風が吹いた。
部室のほうから聞こえてきたのは、新入生たちの、まだぎこちない箏の音。
それなのに、どこか――やさしく、あたたかかった。




