1年目5月:第四話「繰り返す音、止まる心」
ぽん…… ぽん……
部室の空気の中で、箏の音がゆっくりと響いては消えていく。
五月。
風に夏の匂いが混じり始めるころ、澪たち1年生は基礎練習に明け暮れていた。
「じゃあ、今日は二の糸から五の糸までの“はじき”を重点的に。右手、構えて、はい、いち・に・さん……」
茉莉先輩のカウントに合わせて、畳の上に並んだ箏の音が一斉に鳴る。
でも、その音は“合奏”じゃない。ただの、反復練習。
ほとんど誰の音も聞こえず、自分の出す音が正しいのかどうかもわからない。
「……はあ……」
澪は息を吐いて、指を止めた。
音が濁っていた気がする。でも、原因がわからない。
爪の角度? 指の力? 弦の張り具合?
それとも──私?
ふと目をやると、隣の亜季はまるで機械のように正確な指運びで弾いていた。
表情も変えず、ただ静かに、淡々と。
少し離れたところでは、もうひとりの1年生が、先輩にほめられて笑っていた。
(……私だけ、取り残されてる)
練習を始めて数週間。
自分なりに努力してきたつもりだった。でも、ふとした瞬間に「差」を見せつけられる。
音を出すのが怖くなってくる。
弾くたびに、自分の“できなさ”をさらしている気がして。
「綾瀬ちゃん、ちょっとこっち」
不意に呼ばれて、澪は顔を上げた。
茉莉先輩が、笑顔で手招きしている。
「もうちょっとだけ力を抜いてみようか。音が少し硬くなってるかも。大丈夫、音ってね……心が出るからさ」
その言葉に、澪は胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。
“心が出る”──なら、今の私は、どんな音を出しているんだろう。
その日の帰り道。
風が柔らかく吹いていたけれど、澪の足取りは重かった。
帰宅して箏の録音を聞き返す。何度も、何度も。
でも聞こえてくるのは、バラバラな音。自信のない音。
それでも、もうひとつの音も耳に残っている。
亜季の、茉莉先輩の、佐伯先輩の……あの、誰かに“届く音”。
澪は、指先をじっと見つめた。
まだ、真っすぐ音を出せないこの手。
だけど、こう思った。
「……私も、そうなりたい」
音の形はまだわからない。でも、願いはここにある。
その夜。
澪はノートをひらき、箏の絵を描いた。弦の位置、糸の番号、手の構え……そのすべてを、ひとつずつなぞるように。
“音に応えたい”
そんなことばを、ページの端に小さく書き添えて、そっと閉じた。