2年目・4月・第1話:第三十七話「春の始まり、部長のいない部室で」
新しいクラスの机に、澪はまだなじみきれないでいた。
春の光はやさしいのに、教室のざわめきはどこかざらついて聞こえる。
隣の席に座った子の名前も、まだ覚えられないまま。
でも放課後、足が自然に向かう場所があった。
校舎の南端、くたびれた廊下の先。畳の音楽室。
——箏曲部の部室。
ガラリ、と戸を開けると、もう誰かがいる気配がした。
「……やっぱり来てた」
背を向けたままの姿に声をかけると、振り返ったのは亜季だった。
制服のまま座布団に正座して、箏の調弦をしていた。
「亜季、早いね」
「新入生、見学来るかもって言ってたから。先に準備しようと思って」
その言葉に、少しだけ胸がきゅっとなる。
——今年は、自分たちが“迎える”側なんだ。
去年の今頃、右も左もわからずにこの部屋をのぞいたときのことを思い出す。
佐伯先輩の柔らかな笑顔。茉莉先輩の明るい声。
あのときの安心感は、どこから来ていたんだろう。
「……茉莉先輩、今日来るのかな」
澪がぽつりと言うと、亜季は無言でうなずいた。
「たぶん。今は“代行部長”って形だけど、もう私たちが回さなきゃだよ」
言葉にされると、ずしりと重みがきた。
“自分たちが部を回す”——その響きは、背中にまだ馴染まない。
そのとき、戸がふわりと開いて、春の風が部屋に滑り込んだ。
茉莉先輩が、にこにこと現れた。
「おっす、後輩たち~。準備万端じゃん。えらい!」
その明るさに、どこか救われる。けれど、もうすぐこの笑顔も“見送る側”になるんだと思うと、
澪の中に小さな風の音が響いた。
午後の練習は、新入生が来るかどうかもわからない、落ち着かない時間だった。
でもそれでも、畳の上で箏の音を鳴らすと、体が思い出していく。
ああ、自分は、ここにいていいんだと。
「……私、ちゃんとできるかな」
練習が終わって、片付けながら澪がぽつりと漏らす。
亜季は弦を巻き直しながら、小さな声で答えた。
「たぶん、誰も最初からちゃんとはできない。
でも、少しずつ“伝えていくこと”も、音と一緒に覚えていくんだと思う」
その言葉は、音楽のようにやわらかく、心にしみた。
春は、はじまったばかり。
そして、澪の“迎える春”も、またここから始まろうとしていた。




