1年目3月・第2話:第三十五話「進路と、となりの音」
その日は夕方から、風が少し冷たくなっていた。
でも、音楽室の中はぽかぽかしていた。西日が畳に斜めの影を落とし、
それだけで、どこか懐かしい空気になる。
澪と亜季は並んで座っていた。
練習というより、気ままな“音合わせ”。
箏の弦を軽く爪でなぞって、小さな音を鳴らしては笑い合う。そんな時間。
「……ねえ、亜季って、将来何になりたいの?」
ふいに澪が口にすると、亜季は手を止めて、しばらく沈黙した。
「……決めてるよ。音楽は、趣味まで」
「え……?」
亜季は静かに箏の前から立ち上がり、窓の外を見つめた。
「うちはね、ちょっと家のことがあって。
音楽を“仕事”にするのは、難しいってわかってる」
声は淡々としていたけれど、
澪には、その言葉の奥にある“何か”が伝わってきた。
「でもね、嫌いになったわけじゃないんだ。
音を出してるときだけは、ほっとする。ここにいていいんだって思える」
澪も、箏の前から少しだけ身体を起こした。
「私……まだ何にも決まってないの。でも、ただ一つだけ……」
言葉に詰まる。でも、勇気を出して続けた。
「もっと、音楽を続けたいって思ってる。
私、まだまだ下手だけど、でも、音があると、自分になれる気がして……」
亜季は少しだけ笑った。
「……いいね、そういうの。きっと澪は、音で生きる人になるよ」
その言葉は、不思議と澪の胸にすっと染み込んだ。
評価でも応援でもない。ただ、まっすぐな事実のようだった。
ふたりはまた、黙って箏に向かう。
何の曲でもない。音がぽつ、ぽつ、と落ちていく。
音と言葉のあいだにあるもの。
そこにふたりの距離が、そっと重なっていた。




