1年目3月・第1話:第三十四話「春の足音、畳の上に」
卒業式の翌日、校内は妙に静かだった。
昨日までの喧騒が嘘みたいで、廊下に響く足音もまばらだ。
澪は、昼休みにひとり音楽室へ向かった。
春の陽ざしは窓越しにあたたかく、畳の香りがほんのりと揺れていた。
佐伯先輩の演奏が終わってから、数日。
部としての活動も、次の代へとゆっくり動き出す準備段階に入っている。
けれど、この部屋にはまだ“余韻”が残っていた。
澪はそっと箏に手をかけて、座る。
爪は持ってこなかった。ただ、静かにその前に座ってみたかった。
(先輩、もうここにはいないんだな……)
そう思ったとたん、胸の奥が少しだけ空っぽになった。
でも、寂しさとは少し違う。ぽっかりと、そこに何かを「預かった」ような感覚。
(今度は、私たちがこの音を守っていくんだ)
心の中でそうつぶやくと、箏の弦がかすかに揺れたように見えた。
風が吹いていた。
窓の隙間から入りこんだ春風が、カーテンをわずかに揺らす。
視線を上げると、窓の外、校庭の桜のつぼみが少しだけ膨らんでいた。
春は、すぐそこにある。
「……ねえ、澪」
振り返ると、いつの間にか亜季がいた。
鞄を肩にかけたまま、部屋の入口に立っている。
「一緒に、少しだけ弾いていかない?」
「……うん」
ふたり並んで箏に向かう。
何も言わなくても、自然と手が動く。
ぽうん、と一音。もう一音。
旋律も、曲名も、何も決めていない。
けれど、春の気配が、そのまま音になったようだった。
ふたりだけの、ささやかな音の対話。
そのやわらかな時間のなかで、澪はほんの少し、**「先輩になる」**という言葉を、近く感じていた。




