1年目2月・第2話:第三十二話「“さよなら”の音階」
卒業演奏会の日、空は雪の名残をかすかに残していた。
正門の花壇には、朝日を浴びた霜柱がきらきらと光っている。
体育館の舞台袖、澪は緊張で手のひらが汗ばむのを感じていた。
この日で、佐伯琴音先輩が本当に“箏曲部の先輩”でなくなる――
それが、じわじわと胸に沁みていた。
「澪ちゃん」
声をかけられ、振り向くと佐伯先輩がそこにいた。
白い袴姿。箏の音のように、凛として美しかった。
「緊張してる?」
「……はい。なんだか、泣いちゃいそうで」
「泣いてもいいよ。でもね、今日だけは、ちゃんと“音で”泣くの。いい?」
澪は目を見開いた。
「音って、心の余白に入りこむから」
「余白……」
「そう。強い気持ちも、弱い気持ちも、そこには入らない。でも、“別れ”は、たいてい余白に生まれるの」
佐伯先輩は、にこりと笑った。
「じゃあ、いってくるね。最後の“六段”、聴いてて」
そう言って、舞台へと向かっていった。
照明の下、舞台の中央。
ゆっくりと、佐伯の爪が動き、一音目が鳴る。
それは、深い井戸の底から立ち上るような、静かな音だった。
でも、その静けさの中に、確かに“何かが終わる”気配があった。
(これは……)
音が重なり、旋律が流れ出す。
優しい。でも、どこか胸をつかまれるような苦しさもある。
「この人の音が、好きだった」
ふいに、澪の心から言葉がこぼれた。
技術でも、完璧さでもない。
その人が、そのまま音になったような――そんな響きだった。
ステージの端で、何人かの保護者が目頭を押さえていた。
澪の母も、そっと目に手をやっていた。
最後の段、終止符の音。
深くて、静かで、何も言わないのにすべてが伝わるような音だった。
澪は目を伏せて、そっと涙を流した。
それは悲しみの涙ではなく、確かに「ありがとう」と「さよなら」が重なった涙だった。




