1年目2月・第1話:第三十一話「最後の練習日」
その日、空はやけに晴れていた。
2月の終わり、八重桜高校。
日差しはまだ冬の匂いを残しているけれど、空気だけが少しだけ軽くなった気がした。
箏曲部の音楽室には、佐伯琴音先輩の姿があった。
引退したあともときどき顔を出していたけど、「練習着」で来たのは、久しぶりだった。
「今日が、最後の練習かな」
笑って言った佐伯先輩に、誰もが返す言葉を探せず、頷くしかなかった。
「やろっか、“六段”」
そう言って佐伯先輩が爪をはめたとき、
音楽室が、静かに凛とした空気に包まれた。
「六段の調」。
澪にとって、それは“音で泣いてしまった”初めての曲だった。
(あのとき、どうして私は泣いたんだろう)
自分でも、よくわからないまま。
でも今なら、わかるかもしれない。
それを確かめるように、澪も爪をはめた。
――爪が弦に触れる。
ぽうん、と澄んだ音が部屋に落ちる。
「一音ずつ、ちゃんと鳴らしてみて」
佐伯先輩の声は、やさしくて、強かった。
六段目の入り。
音が重なっていく。呼吸が合う。
だけど、それ以上に**「誰かの音に触れる」感覚**が澪を包んだ。
佐伯先輩の音には、揺らぎがない。
やさしさがあって、でも頼ることなく、寄り添ってくれる音。
澪は途中で、ふと目を閉じた。
音だけに意識を向けたら、泣きそうになる感覚があった。
(ああ、そうか)
この音を聴いて、泣いたのは——
この人がくれた「安心」に、心がほどけたからだ。
最後の一音が部屋に落ちて、ふっと空気が緩んだ。
「……いい音だった」
茉莉先輩がつぶやいた。
陽も、いつになく神妙な顔でうなずいている。
「本番は来週。でも、今日がいちばん大事な日かもね」
佐伯先輩は爪を外しながら、ぽつりと言った。
「“別れ”って、演奏の中に出るから。気持ちって、隠せないんだよ」
「……はい」
澪の声がかすれたのを、自分でもわかった。
帰り道、澪はノートにこう書いた。
「音が人の心をほどくとき、涙は勝手に落ちる」
まだ、うまく言葉にはできないけど、
今日はその「予感」だけ、しっかりと手に入れた気がした。




