1年目4月:『出会いの音』第三話「話せなかったこと、音でなら」
日が傾くのが、少しだけ遅くなってきた。
春の陽はまだ柔らかくて、音楽室の障子ごしに差し込む光が畳に薄い模様をつくっている。
澪はひとり、部室の隅に座っていた。
爪を付ける練習をしていたが、うまくいかない。ベルトが緩かったのか、人差し指の爪が外れて畳に落ちた。
拾い上げたとき、自分の指先がほんのり赤くなっていることに気づいた。
痛いわけじゃない。でも、下手くそな自分が、そのまま目に見えているような気がした。
放課後の練習が始まってから、今日で三日目。
澪はまだ、ちゃんと“音”を鳴らせていなかった。
昨日までは楽しかったはずなのに。今日はなぜだか、気が重い。
「もっと柔らかく手を動かしてみて」「音が重いかな」「ずれてるよー」
先輩のアドバイスは、優しくても胸に刺さる。
「……ふう」
小さく息を吐いたときだった。
「ここ、空いてる?」
無表情で、でも静かにそう尋ねてきたのは、篠原亜季だった。
無言の印象しかなかった同学年の彼女が、初めて澪に話しかけてきた。
「う、うん。どうぞ……」
亜季は無言で座ると、自分の箏を持ってきて、澪の真向かいに据えた。
「……一緒に、やってみる?」
澪は一瞬、聞き間違いかと思った。でも亜季はもう、爪をはめている。
そして、弦の一部を澪と同じ調律に合わせて、簡単な旋律を指差した。
「これ、一緒に……ここからここまで」
ふたり、向かい合って箏を構える。
音楽室の奥では、他の部員が別の練習をしていて、誰もこちらを見ていない。だから、少しだけ、澪は安心して弦に指をかけた。
亜季が小さく頷く。
せーの、も何もなく、ふたりはそっと音を出した。
ぽろん――
最初の一音が、同時に鳴る。
不思議なことに、ずれていなかった。自分の音が誰かと重なったことに、澪は驚いた。
次の音も、また次の音も。完璧ではないけれど、少なくとも“合っていた”。
「……すごい、ね」
ぽつりと澪がつぶやくと、亜季は顔を上げないまま、ほんのわずかに口角を上げた。
音でなら、伝わることがある。
名前を呼ぶでもなく、言葉を交わすでもなく、ただ並んで座り、指を動かすだけで――
自分がここにいるということを、誰かと分かち合える。
練習が終わるころ、佐伯先輩が声をかけてくれた。
「2人とも、いい音してたよ。ずっと聴いていたくなるような」
その言葉を受けて、澪はふと、指先を見た。
赤くなったままの爪の根元が、なんだか誇らしかった。
帰り道。
空は少しだけ茜色になっていた。校門のそばで春の風が舞い、桜の花びらをひとひら、澪の肩に乗せた。
──話せなかったこと。
それでも、音でならきっと伝えられる。
そんな気がした春の終わり。




