表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『風音のあとで』  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/50

1年目4月:『出会いの音』第二話「私は箏を選んだ」

次の日も、澪は昼休みに音楽室の前まで来てしまっていた。

 別に何か予定があるわけじゃない。ただ、あの場所の空気を少しだけ思い出したくなっただけ。


 廊下の窓越しに、昨日と同じ春の光が畳を照らしていた。

 中では、ポニーテールの先輩──名前は確か、藤村茉莉さん、だった──が、後輩らしき部員と話しているのが見える。


 「……あ」


 目が合った。


 逃げるように身を引こうとしたそのとき、音楽室の戸が開いた。


 「来てくれたんだ。また見学?」


 茉莉先輩が、少し汗ばんだ額を手でぬぐいながら笑う。

 春の日差しがまぶしくて、澪はうまく顔が上げられなかった。


 「……はい。あの、昨日、少しだけ音が出せたのが、嬉しくて……」


 「うんうん、最初はそれで十分だよ! じゃあ、今日も箏に触ってみる?」


 まるで公園のベンチにでも誘うような、気さくな声だった。

 澪は、こくりと頷いた。


 


 午後の放課後。昨日とは違って、先輩たちはそれぞれの練習に入っていた。

 篠原亜季も黙々と弦を調整している。向かいの座布団に座る澪のことなど、気にも留めていないようだった。


 ……いや、そんなことはないのかもしれない。

 昨日、無言で手を取ってくれたあの感触が、まだ澪の指に残っている。


 


 「綾瀬さん、曲、聴いてみる?」


 不意に、音楽室の奥から柔らかな声がした。

 振り向くと、三年の佐伯先輩が箏の前に座っていた。今日は、袴ではなく制服姿だったけれど、その姿勢にはやはりどこか品がある。


 「はい……」


 澪が姿勢を正すと、佐伯先輩はにっこり笑って、ひと呼吸おいてから演奏を始めた。


 曲は「さくらさくら」の変奏だった。けれど、それは小学校の音楽の時間で聴いたそれとはまるで違っていた。

 一音ごとに、桜が舞う。風に乗り、空に溶けて、地に落ちて、また舞い上がる。


 言葉じゃないのに、景色が浮かぶ。

 音だけなのに、涙が出そうになる。


 「……すごい……」


 佐伯先輩は最後の音を弾いたあと、しばらく沈黙して、それから微笑んだ。


 「“さくら変奏曲”。箏の定番だけど、弾く人によって景色が変わるの。不思議でしょ?」


 澪はこくこくと頷くことしかできなかった。


 「箏って、静かなのに強いし、古いのに新しくて……。そういうの、好きかも……しれないです」


 


 帰り道、澪は校舎の中庭を通り抜けた。

 春風が木々のあいだから吹いてくる。気づけば、鞄の中に入っている“入部届”。


 教室の机の上に出しては仕舞い、出しては仕舞いしていた紙だ。

 提出するべきかどうか、今日も迷っていた。でも今は、少し違う。


 この紙は、あの音と、あの空気と、あのひとたちのもとに繋がっている。

 そう思うと、自然と足が職員室へ向かっていた。


 


 入部届を差し出したあと、廊下を出た瞬間、春風がぱっと吹き抜けた。


 制服の袖が揺れ、髪が舞い上がる。視界の端を、桜の花びらがひとひら、横切った。


 


 ──音も、風みたいに誰かに届くものなのかもしれない。


 


 澪は、手の中の小さな余熱を確かめるように、指先をそっと握った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ