1年目4月:『出会いの音』第二話「私は箏を選んだ」
次の日も、澪は昼休みに音楽室の前まで来てしまっていた。
別に何か予定があるわけじゃない。ただ、あの場所の空気を少しだけ思い出したくなっただけ。
廊下の窓越しに、昨日と同じ春の光が畳を照らしていた。
中では、ポニーテールの先輩──名前は確か、藤村茉莉さん、だった──が、後輩らしき部員と話しているのが見える。
「……あ」
目が合った。
逃げるように身を引こうとしたそのとき、音楽室の戸が開いた。
「来てくれたんだ。また見学?」
茉莉先輩が、少し汗ばんだ額を手でぬぐいながら笑う。
春の日差しがまぶしくて、澪はうまく顔が上げられなかった。
「……はい。あの、昨日、少しだけ音が出せたのが、嬉しくて……」
「うんうん、最初はそれで十分だよ! じゃあ、今日も箏に触ってみる?」
まるで公園のベンチにでも誘うような、気さくな声だった。
澪は、こくりと頷いた。
午後の放課後。昨日とは違って、先輩たちはそれぞれの練習に入っていた。
篠原亜季も黙々と弦を調整している。向かいの座布団に座る澪のことなど、気にも留めていないようだった。
……いや、そんなことはないのかもしれない。
昨日、無言で手を取ってくれたあの感触が、まだ澪の指に残っている。
「綾瀬さん、曲、聴いてみる?」
不意に、音楽室の奥から柔らかな声がした。
振り向くと、三年の佐伯先輩が箏の前に座っていた。今日は、袴ではなく制服姿だったけれど、その姿勢にはやはりどこか品がある。
「はい……」
澪が姿勢を正すと、佐伯先輩はにっこり笑って、ひと呼吸おいてから演奏を始めた。
曲は「さくらさくら」の変奏だった。けれど、それは小学校の音楽の時間で聴いたそれとはまるで違っていた。
一音ごとに、桜が舞う。風に乗り、空に溶けて、地に落ちて、また舞い上がる。
言葉じゃないのに、景色が浮かぶ。
音だけなのに、涙が出そうになる。
「……すごい……」
佐伯先輩は最後の音を弾いたあと、しばらく沈黙して、それから微笑んだ。
「“さくら変奏曲”。箏の定番だけど、弾く人によって景色が変わるの。不思議でしょ?」
澪はこくこくと頷くことしかできなかった。
「箏って、静かなのに強いし、古いのに新しくて……。そういうの、好きかも……しれないです」
帰り道、澪は校舎の中庭を通り抜けた。
春風が木々のあいだから吹いてくる。気づけば、鞄の中に入っている“入部届”。
教室の机の上に出しては仕舞い、出しては仕舞いしていた紙だ。
提出するべきかどうか、今日も迷っていた。でも今は、少し違う。
この紙は、あの音と、あの空気と、あのひとたちのもとに繋がっている。
そう思うと、自然と足が職員室へ向かっていた。
入部届を差し出したあと、廊下を出た瞬間、春風がぱっと吹き抜けた。
制服の袖が揺れ、髪が舞い上がる。視界の端を、桜の花びらがひとひら、横切った。
──音も、風みたいに誰かに届くものなのかもしれない。
澪は、手の中の小さな余熱を確かめるように、指先をそっと握った。




