1年目9月:第十七話「音が止まった、そのとき」
澪の鼓動が、耳の奥でうるさく響いている。
照明に照らされた舞台。
畳の上に整然と並べられた箏。
そして、その向こうに広がる客席の影。
澪の手は、すでに爪を構えていた。
心は、「ちゃんと弾かなきゃ」という思いでいっぱいだった。
──私の音だけで、流れを止めたらどうしよう。
──お母さんや妹が聴いてる。
──亜季に迷惑かけたくない。
「……いけるよ」
小さく、亜季がつぶやいた。
まるで心を読まれたようで、澪は一度だけうなずいた。
演奏が始まった。
冒頭の重厚な合奏は、順調だった。
指が覚えている音を、爪がたどっていく。
けれど、ソロパートが近づくにつれ、
鼓動が再び騒ぎはじめた。
そして──そのとき。
澪の指が、ほんの一瞬、止まった。
シン……とした空気。
会場の気配すら止まった気がした。
どうしよう。何かが凍りついたように、身体が動かなかった。
──そのときだった。
すぐ隣から、そっと重なる音がした。
亜季の音だった。
小さく、でも明確に、フレーズの続きを提示するように。
まるで「大丈夫、ここからでいいよ」と言ってくれているようで。
澪は息を吸った。
爪を戻した。
音を出した。
ぽろん。
ぽろろん。
少し震えたけれど、確かに“自分の音”だった。
そのあと、音は重なり、広がっていった。
茉莉先輩の柔らかい音が加わり、佐伯先輩のあたたかな旋律が包む。
澪はそのなかに、自分の爪を差し出した。
──怖かった。けれど、止まっても、終わりじゃなかった。
──音は、誰かがそっと受け止めてくれる。
澪の音が、変わり始めた。
少しだけ、前よりも澄んだ音が出せている気がした。
演奏は終盤に近づいていた。
ラストの合奏が、まるで“心をひとつに”というメッセージのように流れていく。
最後の一音が響いた瞬間──
会場から、大きな拍手が沸き起こった。
けれど澪には、それよりも胸に残ったことがあった。
あのとき。
自分が止まった、その瞬間。
“音で支えられた”という感覚。
それは、これまでに感じたことのない、やさしい記憶になった。




