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『風音のあとで』  作者: 南蛇井


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16/50

1年目9月:第十六話「開幕前の静けさ」

いつもと同じ音楽室。

 けれど、その空気はいつもより少しだけ張りつめていた。


 


 「……弦、ゆるんでないかな」

 澪は何度目かになる調弦を繰り返していた。


 リハーサルなのに、手が震えている。

 指先の感覚がいつもの半分しかない気がする。


 


 「緊張してるの?」

 隣に座る亜季が、さらりと訊いた。


 


 「……してない、って言えたらよかったんだけど」

 澪は苦笑する。

 それすら、うまく笑えていない気がした。


 


 「大丈夫。もし途中で止まっても、私が音を入れるから」

 亜季の声は、淡々としていたけれど、どこか静かな熱があった。


 


 「……うん」

 その“うん”に、どれだけの感謝が込められているか。

 澪には言葉にできなかった。


 


 その後のリハーサルでは、ソロパートで一瞬、手が止まりかけた。

 何とか立て直したものの、胸の奥は、ざわざわしたままだった。


 


 ◇


 


 午後一時、八重桜高校文化祭──箏曲部のステージが始まる。


 


 会場は校舎裏の特設和風ホール。

 畳を敷き詰めた空間に、照明と紅白の幕。

 そして、部員たちは袴姿で、静かに舞台の袖に立つ。


 


 澪は、そっと客席をのぞいた。

 前列の端に、母と妹の姿が見える。


 


 その瞬間、胸が苦しくなった。

 見せたい。聴かせたい。けれど、怖い。

 何かがせめぎ合って、指先が冷たくなった。


 


 「硬くなりすぎると、音も固くなるよ」


 佐伯先輩が、横からささやいた。

 澪が驚いて顔を上げると、彼女はふっと笑って、


 


 「楽しんできな。……だって、私たちの“今の音”を聴かせるために、やってきたんでしょう?」


 


 その言葉が、胸にすとんと落ちた。


 ──そうだ、私は“上手く弾く”ためだけに、ここにいるんじゃない。


 音で伝えたい。

 昨日までの練習、あの合宿、みんなの音。ぜんぶを。


 


 澪はそっと、目を閉じた。

 そして、深く呼吸をした。


 


 開演のベルが鳴る。


 畳を踏む音とともに、澪は舞台へと歩き出した。


 


 そこには、

 もう「ひとりきりの不安」ではなく、

 「誰かと音を鳴らすための静けさ」が、確かにあった。

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