1年目9月:第十六話「開幕前の静けさ」
いつもと同じ音楽室。
けれど、その空気はいつもより少しだけ張りつめていた。
「……弦、ゆるんでないかな」
澪は何度目かになる調弦を繰り返していた。
リハーサルなのに、手が震えている。
指先の感覚がいつもの半分しかない気がする。
「緊張してるの?」
隣に座る亜季が、さらりと訊いた。
「……してない、って言えたらよかったんだけど」
澪は苦笑する。
それすら、うまく笑えていない気がした。
「大丈夫。もし途中で止まっても、私が音を入れるから」
亜季の声は、淡々としていたけれど、どこか静かな熱があった。
「……うん」
その“うん”に、どれだけの感謝が込められているか。
澪には言葉にできなかった。
その後のリハーサルでは、ソロパートで一瞬、手が止まりかけた。
何とか立て直したものの、胸の奥は、ざわざわしたままだった。
◇
午後一時、八重桜高校文化祭──箏曲部のステージが始まる。
会場は校舎裏の特設和風ホール。
畳を敷き詰めた空間に、照明と紅白の幕。
そして、部員たちは袴姿で、静かに舞台の袖に立つ。
澪は、そっと客席をのぞいた。
前列の端に、母と妹の姿が見える。
その瞬間、胸が苦しくなった。
見せたい。聴かせたい。けれど、怖い。
何かがせめぎ合って、指先が冷たくなった。
「硬くなりすぎると、音も固くなるよ」
佐伯先輩が、横からささやいた。
澪が驚いて顔を上げると、彼女はふっと笑って、
「楽しんできな。……だって、私たちの“今の音”を聴かせるために、やってきたんでしょう?」
その言葉が、胸にすとんと落ちた。
──そうだ、私は“上手く弾く”ためだけに、ここにいるんじゃない。
音で伝えたい。
昨日までの練習、あの合宿、みんなの音。ぜんぶを。
澪はそっと、目を閉じた。
そして、深く呼吸をした。
開演のベルが鳴る。
畳を踏む音とともに、澪は舞台へと歩き出した。
そこには、
もう「ひとりきりの不安」ではなく、
「誰かと音を鳴らすための静けさ」が、確かにあった。




