1年目8月:第十五話「朝焼けの音、願いの音」
しん……とした闇の中で、まだ誰も目を覚ましていない。
澪はひとり、そっと宿の玄関を開けた。
早朝の山の空気は冷たくて、けれど澄んでいた。
昨夜の演奏が、まだ耳の奥に残っている。
静かだった。でも、確かに“心が鳴っていた”。
澪は、その余韻の中にいた。
やがて、草を踏む音がして、誰かが近づいてくる。
「……早いね、綾瀬さん」
亜季だった。片手に箏のケースを持っている。
「音が、鳴りたがってて」
そんな言葉が自然に出た。
亜季は驚いたような、でも少し嬉しそうな顔で笑った。
それから、二人は宿を抜け出して、川辺へ向かった。
昨日、茉莉先輩が「朝の音も悪くないよ」と言っていた場所。
しばらくして、茉莉先輩と佐伯先輩もやって来た。
「朝合奏、始める? どうせ今日で最後だしね」
茉莉先輩が軽く言うと、佐伯先輩が笑った。
「いいね、願いの音をひとつずつ、鳴らして終わろうか」
四人は、石の上や草の上にそっと箏を置いた。
目の前には、まだ淡くしか色づいていない川。
空も、ゆっくりと紺から紫へ、紫から金へと変わっていく。
合奏が始まった。
決めごとはなかった。順番も決まっていない。
ただ、それぞれが「この朝に鳴らしたい音」を出しただけ。
亜季の音は、深く静かで、水底を流れるようだった。
茉莉先輩は、高く跳ねるような光のような旋律を重ねた。
佐伯先輩の音は、あたたかく包みこむ、家みたいな響きだった。
そして──
澪は、両手を箏に置いて、ゆっくりと目を閉じた。
「もっと、音で伝えられる人になりたい」
心の中で、そうつぶやいてから、そっと弦をはじいた。
その音は、朝の風に乗って、どこまでも伸びていった。
緊張も、不安も、少しずつほどけていくようだった。
最後の音が消えるころには、朝日が川面をまっすぐ照らしていた。
「……これで、合宿終わりだね」
誰かがつぶやいたあと、しばらく誰も言葉を発さなかった。
けれどその沈黙は、とても満ち足りていた。
澪の中で、“音で願う”ということが、
初めて、ちゃんと意味を持った気がしていた。
次は、文化祭。
次は、もっと音を届ける番。
そんな決意を、朝焼けにそっと託していた。




