1年目8月:第十三話「夏合宿、はじまりの音」
蝉の声が、空の高いところから降ってくるように聞こえる。
見上げた空は真っ青で、遠くの雲さえ眩しく見えた。
「うわあ……めっちゃ山奥……」
荷物を下ろした茉莉先輩が、あっけらかんと笑った。
その隣で、亜季は淡々と宿の外観を眺めている。
箏曲部の夏合宿。
今年は、市からバスで1時間ほど離れた古民家を借りての三日間だ。
合宿所は築七十年の木造建築。畳敷きの大広間に、大きな縁側。
練習場として借りた近くの公民館も、木造で音がよく響く。
「なんか、時間が止まったみたいな場所ですね……」
澪は、降ろしたキャリーケースを手にしたまま、ぽつりとつぶやいた。
「止まってるんじゃなくて、“鳴ってないだけ”かもね」
佐伯先輩が笑う。
「じゃあ私たちが、“音を鳴らしに”来たんだね」
茉莉先輩が、にやっと笑った。
合宿初日のスケジュールは、まず部屋割りと荷ほどき。
それから軽く昼食を取り、午後から本格的な練習が始まる。
「さっさと荷物置いて、箏のチューニング始めよう。弦、湿気でゆるんでると思うし」
練習場の公民館は、宿から徒歩五分。
木造の板張りに、高い天井。扇風機だけが回る古びた和室。
けれどその空間に箏を並べ、爪をはめた瞬間──
そこは澪にとって、“音だけの世界”になった。
午前中に割った爪も、もう痛まない。
ひとつの音が、次の音を呼び、まわりの音と混ざり合っていく。
「音、そろってきたね」
茉莉先輩の声に、皆が小さく頷く。
誰も喋らなくても、箏の音が言葉のように飛び交っていた。
──こんな時間が、ずっと続いたらいいのに。
そんな風に思える午後だった。
夜になれば、夕食を囲み、語り合い、
そして星の下で小さな音を鳴らす「夜の即興演奏会」が予定されている。
それをまだ知らない澪は、
「夏の音」に、ただ静かに耳をすませていた。




