1年目7月:第十一話「音が止まる、怖さ」
「……あっ」
また、止まってしまった。
音楽室の夕方は、静かすぎて怖い。
誰もいない。聞いてくれる人も、支えてくれる音もない。
(ひとりで音を出すって、こんなに……)
澪は、手を止めたまま、弦の上に爪を置いた。
ソロパートの出だし。あの“風みたいに始まる”旋律。
何度も練習しているのに、今日に限って最初の一音がうまく出ない。
指がこわばって、弦の上を滑るだけで、音にならない。
「……なんで」
かすかに、独り言が漏れる。
昨日までは出ていた音。なのに今日は、どうして。
息を吸うのも怖くなる。頭の中だけが、焦って騒がしくなっていく。
「……ひとりで弾くって、ずるいよ」
ぽろっと出たその言葉に、我ながら驚いた。
誰に向けたものでもなかった。ただ、誰かに聞いてほしかった。
そのとき、扉がすっと開く音がした。
「……まだいたの」
亜季だった。
澪は、慌てて立ち上がろうとしたが、亜季は首を横に振った。
「弾いてるとこ、見てた」
「ごめん……私、ソロ、やっぱり無理かも……。出ないの。音が。どうしても」
声に出したら、胸の奥にあったものが、涙みたいに溶け出してきた。
亜季は少しだけ考えるようにしてから、近くの椅子に腰を下ろした。
「私も、止まったことあるよ」
「え……」
「小五の時。独奏会で、自分の音にびっくりして、止まった。
音って、自分をさらけ出すとこあるでしょ。だから、怖い」
亜季が、そんな話をするのは珍しかった。
「でも、止まってもいいと思うよ」
「……いいの?」
「うん。止まるのが怖いって、ちゃんと届けようとしてる証拠だから」
沈黙が降りて、それから澪は静かに譜面を開いた。
もう一度、始めてみようと思った。
緊張のまま弾く音は、まだふるえていたけれど、
今度は、止まらなかった。
ほんの少しだけ。
亜季の静かな視線が、澪の背中を押してくれていた。




