1年目7月:第十話「ソロパートの譜面」
「今年の文化祭演奏、曲は……《風花》でいきます!」
音楽室の中央で、茉莉先輩が張りのある声で宣言した。
その手には、何枚もの楽譜が抱えられている。
《風花》──
古典の旋律に現代の和声を織り込んだ、少し難しい合奏曲。
茉莉先輩が去年の冬に先生と一緒にアレンジしたという、いわば“箏曲部オリジナル”だ。
「でね、この曲、途中にソロパートがあるの」
部員たちが一斉に顔を上げる。
「今年のソロは……澪にお願いしようかな」
……一瞬、時が止まった。
「えっ」
澪の声が、小さく、喉の奥から漏れた。
「だって、最近すごく音が変わってきたし。
丁寧で、柔らかくて。『聴かせる』って感じがするの、澪の音って」
茉莉先輩がそう言ってくれるのが、逆に苦しい。
澪は目の前の譜面に視線を落とした。
「ここ、12小節。中間部の入り。音が消えて、風みたいに始まるとこね」
ふわっと弾むようなメロディ。ゆるやかなリズム。
だからこそ、音の“間”と“表情”が問われる――技術ではなく、心で奏でなきゃならない旋律だった。
(……私に、できるのかな)
演奏中に音が止まった、あの日がよみがえる。
声にならなかった思い、指がふるえた記憶。
「無理だったら言ってね。みんなで支えるから」
茉莉先輩の言葉に、澪は小さくうなずいた。
でも、心の奥では、逃げたくない気持ちが確かに芽生えていた。
「……やってみます」
小さな声。けれど、自分のなかでは精一杯の決意だった。
亜季が、譜面の向こうからこちらを見つめていた。
何も言わないけれど、静かな瞳が「大丈夫」と言ってくれているようだった。
その日、練習が終わって誰もいなくなった音楽室で、澪はひとり、ソロパートの最初の一音を爪で弾いた。
ぽろん。
その音は、小さく震えながらも、確かに風のように澪の胸を抜けていった。




