1年目4月:『出会いの音』第一話「爪をはめる手」
春の午後、風が吹いていた。
窓から差し込む光が、まだ見慣れない校舎の廊下を細長く切り取っている。綾瀬澪は、その光の端を踏まないように、そろそろと歩いていた。
入学して三日目。クラスにも、教室にも、まだ馴染んだとは言いがたい。
声の大きな子の隣にいると自分の存在が消えていく気がして、かといって一人でいるのも目立つようで落ち着かず、気づけば校舎の裏側へと逃げるように歩いていた。
曲がり角をひとつ、またひとつ抜けたところで、澪の足が止まった。
「──音?」
微かに、何かが弾けるような音が聞こえた。ぽろん、という短い響き。
ピアノでもギターでもない、もっと張りつめたような、でも芯のある音。耳を澄ませると、それは、木造校舎の一角から漏れてきているようだった。
校舎の端、半地下のように少し下がった場所。看板に「箏曲部 音楽室」と書かれている。
畳敷きの和室のようなその部屋から、静かに音が流れ出ていた。
引き戸をそっと開けると、畳の匂いがふわりと鼻をくすぐった。
正面に箏が並び、奥の窓から春の光が差している。三人の生徒が床に座っていた。ひとりは長い髪を結った三年生らしき上級生。もうひとりは朗らかそうな雰囲気の二年生。そして、残りのひとりが──澪と同じ、真新しい制服を着た同学年の少女だった。
「見学、かな?」
声をかけてきたのは、二年生の先輩だった。髪をポニーテールにまとめ、凛とした印象を持っている。
「……はい。少しだけ、見させてもらえたら……」
小さく頭を下げると、三人とも柔らかく笑ってくれた。
数分後、澪は人生で初めて“爪”というものを指にはめていた。
箏を弾くための義爪。親指、人差し指、中指にひとつずつ。ベルトで指に固定する。
「ちょっときついくらいがちょうどいいよ」と言ったのは三年生の先輩。落ち着いた口調と物腰で、どこか音楽のような人だった。
「……うまく、つけられません」
もたもたしていると、隣に座っていた同学年の少女──無言だったその子が、澪の手をそっと取り、爪の角度を直してくれた。
動作は静かで的確。目が合いかけたけれど、すぐに逸らされた。
「篠原亜季。わたしも一年。……経験者だから」
その子が小さくそう言ってくれたとき、澪の中にすこしだけ安心が広がった。
箏の上に手を構える。十三本の弦が、目の前に張り詰めていた。
佐伯先輩が、横でそっと言った。
「じゃあ、まずはこの一の糸──いちばん低い音の弦を弾いてみましょうか。弾く、というより……払うように」
息を吸って、右手の親指でそっと弦を弾く。……ぽん、と音が跳ねた。
次の瞬間、畳の部屋に余韻が広がる。天井の木目にまで、音が届いたような気がした。
「……きれい」
思わずこぼれたことばに、佐伯先輩がうれしそうに頷く。
「でしょ。箏って、一本の音でも、きちんと誰かに届くんです」
帰り道、春の風がスカートの裾を撫でていった。
澪の中で、さっきの音がまだ鳴っている気がした。初めて触れたあの震え、心のどこかを揺らした確かなもの。
──音って、こんなに静かなのに、こんなに強いんだ。