「新選組一番隊組長――沖田総司です」
「ソージ! 危ないから下りてきなさい!」
「マーガレット義姉さん、ここからの眺めはいいですよ!」
義姉さんの心配する声を尻目に、私はどこまでも続く青空と果てしない大地を見た。
屋敷の屋上から屋根づたいに上ると、バーナード公爵家の領地が目の前に広がる。まあ少々危ないけど、この絶景には代えられない。青々とした森に雪が積もっていて、その先に湖が見えた。私の後ろには領民が住む街がある。
「義姉さんのほうこそ危ないですよ。そんな中途半端な場所にいたら落ちますって」
私は屋根の上に座っているけど、義姉さんは屋根に足をかけている。なんとか下に下ろそうとしているのだろう。それはそうだ。何せ私は――五才の男の子なのだから。
「わ、私の心配するより、あなたが下りてきなさいよ!」
「はいはい。分かりましたって。よっと!」
滑るように屋根から降りて義姉さんの隣に着地する。
その下り方が義姉さんには危ないように思えたのか、可愛らしく「きゃあ!」と悲鳴を上げた。
「あ、あなたねえ! 人に心配かけすぎなんだから!」
「あははは。ごめんなさい――そうだ、お兄様が帰ってくる頃です。お出迎えしなければ」
逃げるように私はそのまま屋敷に入る。
義姉さんは「まったくもう!」と文句を言って後を追ってきた。
「ソージ、あなたは公爵家の子息なんだから、もう少し落ち着くことを――」
「説教は聞きたくありません……あ、お兄様だ!」
狩りから帰ってきた七才年上の兄、ピーターに駆け寄ると「おお、ソージ! 相変わらずマーガレットを困らせているのか?」とにこやかに迎えてくれた。
「聞いてください、あなた! この子ったら屋上に上って――」
「なに? おお、ソージ。お前度胸あるなあ。俺なんか全然上れないぞ」
「ピーター! 何を褒めているんですか!」
ぎゃあぎゃあと口うるさい義姉さんに困り顔のお兄様。
うん。いつも通りの平和な光景だなあ。
「そうだ。お母様の様子はどうだ?」
「……お義母様はいつも通りですよ。良くも悪くもありません」
「うーん……お父様が亡くなってから床に臥すようになったが……」
お母様のエミリアは最近体調が悪い。
お父様が死んで家長となった重責もあるのかもしれない。
我が公爵家はかなりの領地があるから、その経営は心労が溜まるのだろう。
「今日は狩りで大物を仕留めた。お母様に食べてもらおう。もちろん、お前たちにもだ」
「へえ。いつもの肉屋じゃないんですね」
肉屋とはそのままの意味で、貴族の狩りについて行き、獲物を仕留められなかったら代わりの肉を売ってくれる業者だ。はっきり言ってお兄様は狩りが上手くない。よく肉屋の世話になっている。
「あ、馬鹿にするなよ! 今日はデカいイノシシを仕留めたんだ!」
「珍しい。明日は大雪が降るかもですね」
「ソージ! 言葉が過ぎるぞ!」
兄弟二人して騒いでいると、義姉さんは呆れたように呟く。
「はあ。この二人で大丈夫かしら……公爵家の跡継ぎと補佐役、務まるのかな」
◆◇◆◇
私、ソージと兄のピーター、その婚約者で十四才のマーガレット。
そして母のエミリア。
私たち家族はそれなりに幸せだった。
公爵家の家庭教師は厳しかったし、義姉さんはもっと厳しかったけど、それでも毎日の暮らしはとても楽しかった。
まだ友達はいないけど、家族が仲良くしてくれるから寂しくはなかった。
このまま穏やかに続いていければいいなあと思っていた。
「そうか。お前のほうでも調査を続けてくれ」
「かしこまりました」
公爵家の家臣が屋敷に出入りするようになった。
お兄様に何事だろうかと訊こうとすると「待ちなさい」と義姉さんに止められた。
「あ。義姉さん。あの人たちは――」
「今、公爵家は狙われているのよ……あの魔王軍に」
魔王軍。私たちが暮らすパスカル王国を狙っている、魔族と魔物で構成された異端の国の軍隊。
彼らは魔王と名乗る者に従って各地を侵略している。領民を虐殺して統治者をも殺す。恐ろしい存在だ。
「どうして私たちを狙っているんですか?」
「魔王が治める国と近いから……あとお義父様のこともある」
マーガレット義姉さんは父のクリントが魔王の右腕を斬り落としたことが原因だと語ってくれた。その恨みで狙っているらしい。
「いざとなったらあなたはここから逃げなさい」
「そんなことできませんよ! だって――」
そのとき、頭の中で『士道不覚悟』という言葉が木霊した。
何のことだか分からないけど、酷い頭痛がした――
「どうしたの? お医者さん呼ぶ?」
義姉さんが心配した表情で私の背中をさする。
大丈夫です、と答えたけど……自分でも分からない。
最近、変な夢ばかり見る。よく分からない街を歩いている光景だ。レンガ造りじゃない、木とか布とかでできている。そして読めない字も書かれていた。
そのことをお兄様や義姉さんに相談しようと思ったけどやめた。
なんだか、言ってはいけない気がしたから。
「そう。ならいいけど」
義姉さんは私を実の弟のように思ってくれている。
普段は恥ずかしくて言えないけど……感謝しているんだ。
義姉さんと別れてから公爵家の図書室でさっきの言葉を調べる。
辞書にも本棚の本にも載っていなかった。
うーん、なんだろう?
ま、いいや。また今度にしよう。
その日はいつも通りに過ごした。
明日も続くだろうと思って、ベッドで寝た――
「起きろ! ソージ!」
突然、身体を揺さぶられて――何が何だか分からない――目の前にお兄様の顔があった。必死の形相で私は面食らったけど、燃えている音と臭いで火事だと気づいた。
「な、なにが、まさか、火事――」
「魔王軍が攻めてきた! 急いで逃げるぞ!」
私はベッドから飛び起きた。
すぐさま兄に続いて廊下に出る。使用人たちが騒ぐ音と兵士が戦う音が聞こえた。
「お兄様、どこへ――」
「隠し通路がある! お母様とマーガレットは既に逃がした!」
煙が充満してきて息苦しい。
かなりの熱さの中、一階の食堂の下に隠された地下への扉に私をお兄様は押し込んだ。
「お兄様! 早く――」
「俺はここに残る。お父様の仇がいるらしいから」
魔王がいる!? 私は咄嗟に「私も残ります!」と叫んだ。
「お前がいてもどうにもならないぞ! さっさと行け!」
「でも、お兄様が勝てるとは思えません!」
「はっきり言うじゃないか。でもな、これは義務なんだよ」
「義務って何ですか! 貴族の義務ですか!? それとも領主の義務ですか!?」
お兄様は優しい顔のまま、私の頭を撫でた。
その仕草が今生の別れのように思えて涙を流してしまった。
「違う。家族の義務だ。弟を助けるために、お父様の仇を討つために、俺は戦うんだ」
「……お兄様」
「ソージ、これを持ってろ」
そう言って渡されたのは――剣だった。
お兄様が日ごろ大切にしていた、愛用の剣だ。
以前、私が欲しいと言っていたのを覚えていてくれたのか。
「さあ行くんだ。振り返らずに、振り向かずに、真っすぐ行くんだ!」
お兄様に背中を押されて、私は地下通路を走った。
あるいは逃げてしまった。
お兄様、どうかご無事で――
◆◇◆◇
地下通路は馬小屋につながっていた。
そこへ馬車の準備をしていた御者と見守る義姉さん、そしてお母様がいた。
お母様はぐったりとしていた。いろんなことが起き過ぎて眠ってしまったようだ。
「ソージ! あの人は!?」
義姉さんが私に食ってかかった。
私は「後から来ます」と嘘をついた。
「嘘よ! ああ、あの人死ぬつもりだわ!」
「義姉さん! 後を追うなんて考えないでください!」
私は義姉さんの腰に抱き着いて必死に止めた。
「いやあ、ピーター! お願いだから、放して!」
「お兄様は死にません! 絶対に大丈夫です!」
なんとか義姉さんを説得して、御者さんの操作する馬車に乗り込んだ。
ひたすら走る馬車の中で義姉さんは泣いていた。お母様もうなされていた。
私はお兄様の無事を必死に祈っていた――急に馬が止まった。
「御者さん? どうかした――ひいい!?」
馬車の窓から何か放り込まれた。
御者さんの首だった。驚愕の表情で固まっている。
「きゃあああああああ!?」
義姉さんの悲鳴を聞いて「やっぱりいやがるな」と不気味な声がした。
「出て来いよ! 一緒に楽しもうぜえ!」
「ひゃははは、ぶるって声も出ねえか?」
がたがた震える義姉さん。
お母様は動ける状態じゃない。
私が、守らないと。
ゆっくりと馬車を出ると三人の魔族がこっちを見ていた。
こうもりの翼を生やした、醜悪な魔族だ。
「へっ。ガキか。あんまり楽しめねえな」
「まあ待て。中に女がいやがる」
「じゃあさっさと殺して楽しまねえと!」
下衆過ぎる……私は剣を震える手で抜いた。
怯えていたし逃げ出したかった。
だけど――ここで退くわけにはいかない。
義姉さんとお母様がいるんだから。
「お。やる気か坊主……それじゃ、ちょっと遊んでやろう」
魔族の一人が剣を抜いた。
私は不格好な構えで――振り回して寄せ付けないようにする。
三人は私を嘲笑ったが――すぐに飽きて剣で剣を薙いだ。
そして、私の腹を思いっきり蹴った。
「うげ、うぐえ……」
口から胃液だけじゃない、血を吐いて、私はうずくまった。
魔族が私に剣先を向けた。
もう駄目だと私は諦めた――
「……あれ? なんだこりゃ」
魔族が不思議そうな声を上げた。
目を開けると――私は魔族のわき腹を剣で刺していた。
剣はまだ持っていた。
だけど刺したのか? この私が?
「は、はあ? なんだよ、これ……」
戸惑う刺された魔族を半ば無視して、私は立ち上がった。
魔族の流れる血を見て――思い出した。
持っていた剣で、私はわき腹を押さえている魔族の首を刎ねた。
切れ味は悪くない。
これなら残り二人も――斬れる。
「なんだてめえ! よくもやりやがったな!」
二人がいきり立って襲い掛かってくるが、明らかに素人の動きだ。
一人の上段からの袈裟斬りを私は避ける。
もう一人の袈裟斬りに合わせて、私は手首を斬り上げた。
両の手首が血しぶきを上げて空に舞う。
汚い悲鳴を上げて後ろにひっくり返る魔族に目を切ったもう一人の魔族。
その喉元を――私は突いた。
それも三度連続で、一呼吸のうちに――三段突きだ。
私の得意だった技である。
「こ、ひゅう……」
空気が漏れた音。
以前、たくさん聞いた音――人が死ぬ音。
「ひ、ひ、助けて……」
手首を失った魔族は這って逃げようとする。
翼を使えばいいのにと思いつつ、私は後ろから――刺した。
背中から心臓を貫いた。絶命しただろう。
「そ、ソージ……あなたが、やったの……?」
見上げた空に浮かぶ月に浸っていると、義姉さんがゆっくりと出てきた。
私を恐怖の目で見ている。
京の都でよく見た目だった。
「ええ。やりました。もう安心ですよ」
「あなた……何者なの……?」
知っている子供が魔族を殺した。
信じられないのだろう。私もそうだった。
「申し遅れました。私は――」
そうだ。全ての記憶を取り戻したのだから。
改めて名乗ろう。
「新選組一番隊組長――沖田総司です」