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生真面目令息、恋を知る

「お姉さま、アランさまをわたくしにくださいな」


 そんな声が耳に飛び込んできて、俺は驚き固まった。


 それはとなりの領地へ出かけた帰り道のこと。

 傾く陽を横目に婚約者の屋敷へ寄ったのは、となりの領地で見繕った土産を渡して帰るため。

 こまめに贈り物をするべし、という母上のお達しを守って選んだのは小ぶりなネックレス。特産のオレンジをイメージした、明るい色の宝石の粒が揺れるシンプルなものだ。


 ーーこれを屋敷の使用人にでも預けたら、言付けを頼んで早く帰ろう。婚約者殿に会うには旅装が薄汚れている。馬もずいぶんと疲れさせてしまった。


 婚約者殿との関係に問題はないが、昼下がりという時間帯とはいえ先ぶれも無しに会いにくるほどの情熱的な間柄でもない。ただ親同士が決めた家と家の繋がりということで、それなりの仲を保っていければ良いと思っている。


 護衛兼従者のウルに自分の馬を任せて、屋敷の入り口に向かう。

 門扉付近にいた男性の使用人に婚約者殿へ贈り物を持ってきたと告げれば、家令を呼んで参りますと言って足早に去っていく。


 ーーそのまま預かって、持っていってくれてもよかったんだが。


 そう思ったが、大声で呼び止めるほどでもない。

 直に戻ってくるだろうと門柱によって待っていると、屋敷の方から誰かの足音がする。静かな足音と軽やかな足音。

 ふたつの音が聞き分けられるほど近づいてきたころ。


「お姉さま、アランさまをわたくしにくださいな」


 明るい声が言うのが聞こえたのだ。

 アランと言うのは俺のことではないだろうか。そして、それを口にしているのは、婚約者殿の妹君の声のようだ。

 高い声は澄んでいて、遠くまで届くのだろう。

 ふたりの姿は見つけられない。


「お姉さまよりもわたくしのほうが、華やかな色をまとっているでしょう? きっとアランさまもお喜びになるはずよ。お母さまもそのほうが良いとおっしゃっているの。必要なのはあの方と当家の娘の婚姻なのでしょう。だったらお姉さまでなくたって良いでしょう?」


 婚約者の返事は聞こえない。あの人は声を荒らげるような女性ではないし、日頃から物静かな方だから。

 けれど、それがどうしてか。今日はひどくもどかしくてたまらない。


 ーーあの人がなんと答えたか、かすかにでも聞き取れないものか。


 耳を澄ましてみるけれど、届くのは小さくなっていくふたりぶんの足音だけ。

 慌てて門の内側に目をやれば、婚約者どのの背中とそれを追う婚約者どのの妹君が遠ざかっていくのが見てとれる。

 呼び止めようと口を開きかけたとき。


「お待たせいたしましたっ」

「アランさま。ようこそいらっしゃいました。どうぞ、お入りくださいませ」


 家令を連れた使用人が戻って来てしまった。

 はやい。早すぎる。

 家令の肩越しに見やれば、もう婚約者どのの背中はずいぶん遠い。声をかけるにもやや距離が開きすぎていた。

 今から敷地内に入り駆け出したとしても、追いつくのは難しいだろう。


「いや……これを我が婚約者どのに、と思い立ち寄っただけだ。先ぶれもなくすまなかった」


 土産の品を手渡し、当たり障りのないあいさつを婚約者どのへと言付けてそそくさと門扉を離れる。

 

「坊ちゃん、もう済んだんですか」


 二頭の馬とたわむれていたウルが、手綱を引いて寄ってくる。返事をする余裕もなく、その手から俺の馬を引き取ってひらりとまたがった。


「坊ちゃん?」

「……ウル、駆けるぞ」

「ええ? ちょい、待ちっ」


 言うだけ言って、馬を走らせる。

 ウルが慌てて自身の馬に飛び乗り追いかけてくるのを感じたが、振り向くことも手綱を緩めることもできない。むしろ、もっと速くもっともっと速くとますます前のめりに身を屈めてしまう。

 

 ーー走りたい。走りたくてたまらない!


 理由もわからず駆り立てられる衝動のまま、俺は家まで駆け抜けた。



 ※※※



 屋敷に着くと、ウルに叱られた。

 領地間の行き来で疲れている馬を不必要に駆けさせたためだ。


「で? なんだって急にあんな無茶をしたんです」


 旅の汚れを洗い流し、茶を飲んでひと息ついて。夕食を待つ間、俺の部屋にウルがたずねてきた。

 ウルは俺の八つ上で、俺が生まれたときから従者としてそばにいる相手だ。我が家の遠い親類の元に生まれた庶子を父上が引き取ったそうだけれど、気づいたときにはとなりにいた。そこから十六年も共に過ごしてきたものだから、お互いに気心が知れている。

 つまり、遠慮がない。


「…………」

「坊ちゃーん、俺にだんまりは通用しませんよー?」


 つんつんつんつん。

 椅子に座り、そっぽを向いてだんまりを通そうとする俺の頬を向かいに腰を下ろしたウルが指で突いてくる。これは話すまで止まないと、経験から知っている。


「……婚約者どのの妹御が、婚約者どのに俺をくれと言っていたんだ」

「ああ〜、あそこの家は子連れの後妻を迎えたんでしたね」


 正妻がいないからって好き勝手しはじめたか〜。などとウルはぼやいている。その状況は知っていたが、婚約者どのはつらい目にあっているなどと話してはくれなかった。

 それほどに俺は頼りないのかと、頼って良い相手だと思われていなかったのだと思い知らされて胸がずしりと重くなる。


「盗み聞きするつもりはなかったんだが、取り次ぎを待つ間に婚約者どのとその妹御が屋敷の敷地内で話しているのが聞こえてしまって」

「ふんふん、それで?」

「その、婚約者どのが何と答えたのかは聞き取れなくて。もしかしたら俺との婚約を妹御に譲られてしまうのかと思ったら、どうしてか居ても立っても居られなくなってしまって……」

「飛び乗った馬で走り出した、と」


 改めて振り返れば、なんという奇行。

 これは俺のお目付け役も兼ねているウルに叱られる、と肩を落としたのだが。

 ウルからのお叱りの言葉は降ってこず、呆れ返ったため息すらない。ただただ黙って俺の前に座ったまま。


「……ウル?」


 あまりの奇行に言葉もないのかと恐る恐る顔を上げてみれば、そこには手のひらで口を覆いぶるぶると震えるウルがいた。


「えええ、いや待って今の状況で無自覚? 無自覚のまま今日まで来てるの? 婚約してから今日までの間の自分の行動も全部無自覚? そのうえ相手がなんて答えたのかわからなくって走り出したのをどうしてか駆け出しちゃった、とか言ってるの? なにそれ、あんまりにも青春すぎない? うちの坊ちゃん純真すぎない? うわこれ俺が恥ず。恥っず! うわああああ!」


 小声で早口に何事かをつぶやいたかと思えば、ウルは不意に横を向いて咳払いをひとつ。

 真剣な顔を俺に向けてきた。


「あー、坊ちゃん。いや、今はアランと呼ばせてもらう」

「うん? それは構わないが」


 幼い頃、ウルを実の兄だと思っていた俺は「坊ちゃん」と呼ばれるのを嫌がって、名前で呼んでくれるよう泣きついたことがある。二人きりの時にはわがままを聞いて名前で呼んでくれていたウルだが、俺が婚約したのを機に「もう一人前の男なのだから主従の区別はつけねば」と名前で呼ぶことは無くなっていたのに。


 ーーそれほど俺が幼稚な行為をしたのだろう。


 それゆえの名前呼びなのだから、と叱られる覚悟を持ってウルの言葉を待っていると。


「アランは、妹さんの言葉を聞いた時。エレノア嬢に何と答えて欲しいと思った?」


 エレノア。俺の婚約者どの。彼女に何と答えて欲しいか。

 婚約してから何度か共に過ごした彼女。物静かではあるものの口下手というわけではなく、聡明でありながら優しさを感じさせる振る舞いができる彼女ならば。


「……ご当主に確認を取らねば返事はできない、と答えるだろうか。我が婚約者どのならば」


 熟考して出した結論だったのだが、ウルの求めるものではなかったらしい。従者の顔をはずしたウルは、しわの寄った眉間をもみほぐしている。


「いや、何て答えるかじゃなくて。何て答えて欲しいかって聞いたんだが……今は置いておこう。それよりアラン、気になったんだが。なぜいつまでもエレノア嬢を名前で呼ばないんだ? もう婚約して一年くらい経つだろ」

「いや、今は婚約してから十一ヶ月と十日だ。一年経過するまでまだ少し猶予がある」


 婚約一周年記念には何か贈り物を、と考えていたから間違いない。

 胸を張って訂正すれば、ウルはどうしてか頭を抱えた。


「えええ? 婚約だよね、まだ結婚してないよね、それなのに一周年記念ってするの? いやまあ恋愛からの婚約ならするのかもだけどアランと嬢は親同士が決めた婚約だったよね? お互い仲は悪くないけど格別話が弾むこともなく静かにお茶やらの時間を過ごしてたと思ってたのに。いやまあ確かに、やたら頻繁に会う機会を作るなあとは思ってたけど、えええ? っていうか、婚約期間詳細に覚えすぎじゃない? ちょっと気持ち悪いくらいじゃん。これいつから? いつからこんな気合い入ってるんだっけ、本人無自覚だから全然わからん!」

「ウル? ちょっと早口すぎて何を言っているのか聞き取れないんだが」


 早口かつ、よそを向いてぼそぼそと話されては、何を叱られているのかわからない。叱られる立場でどうかとは思ったが、つい声をかけてしまった。


「あ、ああ。うん……待ってくれよ。そうだな、そう……アラン。年長者として大切なことを言うぞ」

「ああ、頼む」


 よかった。どうやらウルは自分の中で言葉をまとめていただけらしい。兄と慕う相手の助言だ。心して聞かねば。


「まず、アランはもっと自分の気持ちについてよく考えろ。エレノア嬢のことを考えたときにどう思うのか」

「気持ち……どう、とは……」


 しっかり受け止めようと身構えていたのに、もたらされたのは何ともあやふやなもの。気持ちなどという形のないものについて考えろと言われても、どう思うのかと問われても、何と答えればいいのかわからない。

 そんな俺のとまどいが伝わったのだろう。ウルは頭をがしがしとかいた。


「あー、そうだな。いきなりは難しいか。じゃあ、取っ掛かりだ。アランはどうしてエレノア嬢のことをいつまで経っても『婚約者どの』って呼ぶんだ?」

「それは、彼女が婚約者であるから……」

「そりゃそうだ。第三者に対して『彼女は俺の婚約者どのです』って言うならわかる。けどよ、アランは嬢を名前で呼んだことあるか? 無いだろう」

「それは、確かに無い。と思う」


 言われて、記憶を振り返る。

 一年に満たない期間。その間に婚約者どのと過ごした時間が蘇る。


 婚約者が決まったと知らされ、連れられて行った顔合わせの時。食事の席で婚約者どのは言葉少なではあったものの、ふとした会話の折に俺の姿勢の良さを誉めてくれた。あの時の彼女の所作こそ、たいそう美しかった。


 また、婚約記念に初めての贈り物を持参した時には「お返しにもなりませんが」と言って、手ずから作った焼き菓子をご馳走してくれた。焼きたてのりんごのケーキは格別にうまくて、その思いのままに「うまい、うまい」と食べる俺に「褒めすぎです」と照れたように笑った彼女はひどくまぶしかった。


 ささやかな思い出をひとつひとつ振り返っているところへ、ウルがひと言。


「婚約して一年にもなるってのに、名前で呼んだことないなんて。そいつはあんまりにも他人行儀ってもんじゃないか? 嬢がなんて答えたかは知らないが、アランがそんな調子じゃあ向こうも未練なく妹ちゃんに答えちゃうかもなあ」


 胸がひやりとした。

 

「っ少し出る!」


 居ても立っても居られずに、俺は自室を飛び出して厩舎に向かう。

 目についた馬に飛び乗り、駆け出した。


 ※※※


「お前の婚約者どのだよ」


 そうアラン様を紹介されたのは、私が十五になった年。

 きらめく金の髪に鮮やかな空色の瞳。とても同じ年とは思えないほど人形のように整った顔立ちのかの方は、まるで物語に出てくる王子様。


 見惚れてものも言えずにいる私に、アラン様は会釈をひとつ。


「親同士の決めた婚約ではあるが、良好な関係を」


 そこに笑みはなくて。

 どうにかこの縁を繋ぎ止めたいと思い、こじ開けた口から出たのは。


「よろしくお願いいたします」


 なんて、かわいげのない言葉だけだった。

 その後の時間も私は緊張してしまって、ろくな会話もできないまま終わってしまって。

 

 アラン様が帰ったあと、お屋敷で私は義母と義妹相手に泣きついた。


「もう終わりだわ、数日もしたら婚約は取り消させてほしいと連絡が来るんだわ!」


 めそめそする私に、ふたりは呆れ顔。


「ですから言っているでしょう。常日頃から他者との対話の機会を持ちなさいと。引きこもって家で本ばかり読んでいるから、いざというときに困ることになるのです」


 ため息をつく義母は、母亡き後十数年独り身で過ごした父が恋に落ちた相手。

 親子ほども歳の離れた相手と政略結婚したものの、女児ひとりしか産めなかったと離縁されたそう。生家には「出戻り娘などいらん」と追い返され、友人の伝手で暮らしていたところに偶然出会って、お互い恋に落ちたのだとか。


「わ、私なんかと婚約しても、女神のような美貌を持った素晴らしい家柄の女性たちが山のようにやってくるに違いないわ。だってアラン様、あんなに美しい方なのだもの。私などお義母様のように屋敷の端に追いやられることもなく、婚約破棄されてしまうに違いないわ!」  

「あなた……何気に古傷を抉ってくれるわね?」


 義母が口の端をひくつかせる横で、肩をすくめたのは義妹。


「お姉さま、そんなのお姉さまが相手の方を惚れさせてしまえば済むお話じゃない」


 ひとつ違いの義妹のイーナは、義母の連れ子。

 はじめて会った日から私に懐いてくれるかわいい子なのだけれど、不仲な両親を見続けてきたせいで、異性に対するチェックがちょっぴり厳しめ。


 私の婚約者についても、義母とふたりであれこれと話し合って、ようやく決まったのがアラン様なのだけれど。


「ほ、惚れさせるだなんて。私には無理だわ。こんな黒髪に灰色の目の、暗い女なんて……」


 貴族の間でもてはやされるのは、明るい色味をまとった女性。たとえばそう、濃い金髪に明るい橙の瞳を持つイーナのような。

 そう思って義妹を見れば、彼女はむうっと唇をとがらせる。


「お姉さまのお姿は夜の女神のようでとってもきれいなのだって、何度言えばわかってくださるの? 有象無象の好みなんてどうだって良い、お姉さま自信の魅力を信じて、もっと胸を張ってくださいな」

「そうは言うけれど……」


 イーナと義母は苦労してきたから、私の結婚は愛あるもので無ければ。なんて張り切ってる。

 お父様は私たちが騒いでいる姿を「仲良しだねえ」と嬉しそうに眺めているけれど。


(きっと、すぐに婚約破棄されてしまうわ)


 そう、思っていたのだれけれど。


 私の予想に反して、アラン様側から婚約破棄の連絡は届かない。

 それどころか、アラン様は折々に我が家はやってきては私とお茶をしたり、ちょっとした贈り物をくださった。


「とても誠実な方なのね、アラン様。書面上、婚約関係にあるからと私などにもまめに贈り物をしてくださって」


 届けられたばかりの花束を眺め、私はためいきをつく。


「誠実? 婚約してからそろそろ一年経つというのに、婚約当初と変わらず婚約者の元に毎週のように顔を出すのは誠実ではなくって、粘着と言うんじゃないかしら」

「書面上婚約関係にあるから? どう見ても溺愛よね、お姉さまに会いたいから来てるようにしか見えないもの」


 身を寄せてささやき合う義母と義妹が何を話しているかは聞こえない。

 けれど、私はふたりを気にかける余裕など無く、ため息をこぼしてしまう。


「はあ……アラン様から婚約破棄されてしまったら、寂しくなるわ」

「お姉さま、まだ婚約破棄だなんて言ってるの? あのアラン様がそんなことするわけないのに」


 義妹は呆れたように言うけれど。


「いいえ、きっと私は一時的な婚約者に過ぎないわ。だってアラン様、私のことを名前で呼んでくださらないもの。いつまで経っても婚約者どの、と」


 アラン様は、婚約したばかりの時から変わらず私のことを『婚約者どの』としか呼んでくださらない。


「つまり、アラン様には今よりも付き合いの深い間柄になるおつもりが無いということなのでしょう……」


 言っていて、自分で悲しくなってしまう。

 美しく優しいアラン様。

 そっけない相槌しか打てない私にしばしば会いに来て、あれこれと贈り物をくださる方。


 そんな優しい方が、いつまで経っても頑なに婚約者の名を口にしない理由なんて、他にないでしょう。

 そう、思っているのに。

 私から別れを切り出す勇気もなくて。臆病なくせに欲深い自分がほんとうに嫌になってしまう。

 

 だから、想像もしなかった。

 しびれを切らした義妹が「だったらアランさまをくださいな」と言ったその夜。

 アラン様が我が家に駆け込んで来るなんて。


 ※※※


「婚約者どの! 俺はあなたが好きだ!」

「えっ、えええ?」


 ウルが駆けつけた時には、アランはエレノアの両手をとって叫んでいるところであった。

 婚約者の屋敷の前で。

 夕暮れ時とはいえ、まだ日は落ち切っていない。

 そのため、向かい合って立つ若い二人の姿はよく見えた。


 通りかかる人や馬車が何事かと好奇の目を向けているのにも構わず、いや気づかず、アランは婚約者エレノアの目をまっすぐに見て言葉を重なる。


「俺は未熟者であるから、あなたと婚約をしてから今日の日まで義務的にあなたを婚約者として扱うばかりであった。そのことを心の底から申し訳なく思う」

「えっ、いえ。そんな!」


 顔を赤くしつつも懸命に首を横にふるエレノアの向こうで、ぼそりとつぶやく令嬢がひとり。


「義務的? 今までが義務的?」


 首をかしげるのはイーナだ。

 そのとなりには義母もいる。


「イーナちゃん、静かに! いま良いところなのよっ」


 植え込みに隠れてこそこそと話すふたりに気がついて、ウルは頭をかきながらご婦人と令嬢のそばへ寄った。


「あの、うちの主人がご迷惑おかけしてます」

「あら! あなたはアランさまの従者の」

「ウルと申します。あの人、変なところでぽんこつなもので。さっきようやくエレノア様への気持ちを自覚したらしくて」

「やっとなの!?」

「しいっ! ほら、ここからが見どころよっ!」


 驚きに目を剥くイーナの口をふさぐ義母は、ノリノリだ。

 貴族とはいえ人間だもの、とウルは何も言わずに植え込みの影に仲間入りした。

 一方アランは見守る多数の視線もなんのその、エレノアの手を握ったままなおも続ける。


「これまでは、婚約者として間違いのないように振る舞ってきた。あなたを婚約者どのと呼ぶのも、その一環だと。自分ではそうおもっていたのだが」

「……はい」

「だが、違った。俺は、あなたの名を口にすると胸が高鳴るのだ。つまり、あなたが愛おしいあまり、名を口にすることが憚られたのだ!」

「……はい?」


 きりりとした顔で思いを告げる。

 告げられたエレノアが目をぱちくりとまたたく様にアランは「くっ……愛らしすぎる!」と身悶えた。


 その様に戸惑いながらも、エレノアは唇を震わせる。


「……わたくしは、面白みのない女です」

「いいや、あなたの豊かな知識はいつだって俺を楽しませてくれた」

「わたくしは華やかさなどありませんし」

「あなたの夜空のようなつややかな黒髪を華が無いというならば、この世に華など無いだろう」

「わたくしではアランさまと釣り合いません!」

「幸いにも家格が釣りあったからあなたと婚約できた。俺個人の問題はこれからあなたに釣り合うよう、努力する。それではもう、遅いだろうか」


 常にはきりりとしている眉をへにょりと下げてアランが問えば、エレノアは困ったようは視線をそらしてしまった。


 もう遅いのか……? いや、だがここで諦められない!ーーアランはどうにか彼女に想いを伝えようと言葉を探す。


「思い返せばあなたとはじめて会ったあの日、あの時。俺はすでにあなたに恋をしていた。愚かな俺は、言われるまでそうと気づかなかったが……」

 

 アランはエレノアの手を握ったままその場に片膝をついた。

 まるで誓いを口にする騎士のように。気づけば、そうしていた。


 そのまま、驚く彼女の顔を見上げる。


「俺の婚約者はあなたがいい」

「アランさま……」

「この婚約が家と家との繋がりのためだとわかってはいるが、その相手はあなたでなければ嫌なんだ」

「そんな、わたくしにそのような勿体無いお言葉……」


 伝えても伝えても、エレノアはゆるゆると首を横にふるばかり。

 もうダメなのか。だが諦めたくない。アランはすがる思いで言葉を重なる。


「どうか、どうか俺を捨てないでくれ。婚約を義妹どのにゆずってしまわないでほしいんだ、エレノア嬢!」

「わ、わたくしの名を……いえ、それよりアランさまが、どうしてそれを……」

「偶然、耳にしてしまったのだ。盗み聞きするような真似をしてすまない。けれど、俺はどうしてもあなたがいいんだ!」


 声が大きくなるのとともに手にも力がこもる。エレノアの華奢な手をつぶしてしまわないよう苦心しつつ、アランは彼女の答えを待った。


 はじめに応えがあったのは、包み込んだ手のひらだ。

 エレノアの細い指がそろりと動いて、自身の手をつかむアランの手のひらを握り返す。

 か細い熱が指越しに互いを焦がしているようで、アランはこくりと喉を鳴らした。


「……わたくし、も。わたくしも、アランさまが良いです。義妹のことはかわいいけれど、でも、アランさまは渡したくありませんっ!」


 顔をあげたエレノアのまなじりから涙がほろりとこぼれ落ちる。

 アランはたまらなくなって立ち上がりざまに彼女を抱きしめた。


「ありがとう」


 震える声でそれだけを言うのがやっと。

 それ以上はこみあげる何かがこぼれ落ちてしまいそうで、アランがエレノアを抱きしめたままこらえていると。


 しげみを揺らして、現れたウルが拍手をする。


「すばらしい! おめでとうございますっ。ねえ奥さま、お嬢さま!」

「えっ、ええ! そうね。おめでとうございます、お義姉さまっ」

「エレノアちゃん、良かったわね。良かったわ~」


 ガサガサガサとエレノアの義母と義妹とが続いて出てくる。

 いったいなんだってそんなところから出てきたのか。不思議に思うアランだが、問いかけるより前にウルたちに囲まれた。


「いや~長かった、長かった。ようやくこれで両想いですね!」

「ほんとうに。ああ、エレノアちゃん! 今日はお祝いね! こうしてはいられないわ、使用人に夕食を豪勢にするよう伝えなくちゃっ」

「すてきねっ。お義兄さま、今夜は我が家に泊まって行ってくださいな! ウルさまもぜひ一緒に!」


 きゃあきゃあと盛り上がる一行が歩き出したのを見て、アランの腕のなかのエレノアがそっと身じろぐ。


「あの、わたくしたちも参りましょう」

「ああ」


 離すのが名残惜しいと思いながらもアランが腕を解くと、指先にエレノアの手が触れた。

 そろり。遠慮がちに伸ばされた手がアランの指先に絡まる。


 驚いて横を見れば、顔を真っ赤にしたエレノアが上目遣いに見上げていた。


「ええと、その……申し訳ありません」


 視線をさまよわせた彼女が手を離してしまおうとしたから、アランは慌てて彼女と手を繋ぐ。

 

「まだ離れたくないから。繋いでいてはくれないだろうか」

「……はい」


 華奢な指をつぶしてしまわないようやさしく、けれど逃げられてしまわないようしっかりと握れば。

 おずおずとエレノアの手が握り返してくれた。


 この手の温もりを大切にしたい。

 胸にわく想いを噛み締めながら、アランはエレノアと並んで屋敷へ向かう。

 

 何度も訪れたことのある婚約者の屋敷。

 いつもよりうんと華やいで心踊る道であるのは気のせいではないのだろう。


 この先もずっと、ふたりで歩いていきたい。

 そう伝えるのは婚約段階ではまだ早いだろうか。


 アランが隣を歩く婚約者どのを見下ろせば、視線に気づいた彼女がやわらかな笑みを返してくれた。


「俺はあなたが愛おしい。この先もどうか、ずっと共に」

「ひえっ」


 気づけば口から出ていた言葉に、エレノアが真っ赤に染まる。

 赤い顔のままおろおろする彼女もまた、たいへんにかわいい。

 自分の思いを自覚してしまえば、どうしてこれまで彼女の名を口にせずにいられたのだろうかと不思議でならない。


「エレノア嬢、我が婚約者どの。愛している。これからはあなたへの思いを余す所なく伝えると誓う」

「ひええ!」


 赤面したまま悲鳴をあげるエレノアに、アランはとろけるように微笑んだ。

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