魔術学園の講師である夫が、教え子と不倫をしているらしい
「堕ろして貰いましょう」
妻であるエリーゼのその言葉に、セインは我が耳を疑った。
エリーゼとセインは打算的な見合い結婚だった。セインは当時エスカレル魔術学園で最も人気の講師だった。対してエリーゼは最も受講人数の少ない薬草学の講師だった。本来なら交わることのない二人だったが、エリーゼは学園長の親族だったことが二人を引き合わせた。
激しい権力闘争の場である魔術学園において親族という繋がりは何物にも代えがたいものだった。そのため、学園長からエリーゼを紹介されたとき、セインはこれ以上ない優良物件が転がり込んできたと考えた。
おとなしい気質でほとんど研究室に籠もって過ごす非社交的なエリーゼは、少し結婚適齢期を過ぎてはいるものの従順で扱いやすく、どこに連れて行っても恥ずかしくない美しい相貌を持っていた。
実際、結婚生活においてもエリーゼはセインを束縛することなく慎ましやかに家庭を守り、そして繁忙期には仕事を手伝ってくれることも多かった。
そんな、どんなときでもセインの都合を優先してくれたエリーゼがそんな言葉を口にするなど、セインには到底信じられなかった。
しかし固まっているセインを微塵も気にかけず、エリーゼは一切の感情を廃した表情で一つの薬包を手渡してきた。
「この薬を彼女に飲ませて下さい。傍目には自然流産にしか見えないでしょう。それで二度と会わないようにきっぱりと関係を絶ってください」
セインの喉はカラカラに渇いていた。この国において堕胎は殺人に準する重罪だった。それを眉一つ動かさずに要求するエリーゼに対してセインは結婚生活で初めて恐怖を抱いた。
自分が悪いというのは良くわかっていた。それでもここまでしなければいけないのか、そんな思いがセインにはあった。しかしこの件に関しては完全にエリーゼが正しかった。もしこれが明るみに出れば全てがおしまいだった。
政略的見合い結婚をしたというのに生徒に手を出し妊娠させたなど、到底許される罪ではない。
※※※
成長の壁にぶつかっている。それがミリアという生徒に抱いた印象だった。そしてそれは魔術学園において非常にありふれた問題だった。
どれだけ努力しても本人の資質の差がものを言う魔術の世界において、優秀な教師というものは要領よく成長の壁を乗り越えられる生徒のみに目をかける。セインもまたその一人だった。
しかし教育機関である以上、教えを乞う生徒を無視するわけには行かない。そしてミリアは非常に熱心にセインに助けを求めに来る生徒だった。
セインはいつも不満が出ない程度にあしらっていた。はっきり言って煩わしかった。だがある時を境にピタリと来なくなった。セインはどこかせいせいしたような、どこか寂しいような、そんな感情を抱いた。
そしてしばらくぶりにセインの元を訪れた彼女はかなり憔悴していた。セインは彼女に何があったのか気になったが、個人の事情に踏み込むのは教師としての分を超えている。
しばらく悶々とした気分で過ごしたとき、セインは生徒たちのコンパに呼ばれた。結婚しており普段はこういった集まりに参加しないセインもミリアが来ると聞いて気になった。ひたすらに自分に教えを求めてくる彼女が普段は何を考えているのかを確かめるために参加した。
店でミリアは常にセインの隣を維持していた。ミリアに言い寄ってくる男子生徒は多かったが全て雑にあしらっていた。そんな彼女が明らかにセインに気があるという事実が優越感をくすぐった。
そこでセインは彼女の生い立ちを聞いた。幼くして父母を亡くし、奨学金を貰いながら必死に学園にしがみついているという彼女に同情の念を抱かずにはいられなかった。それはセインにしばらく忘れかけていた教師としての熱さを思い出させた。
それからというもの、セインはミリアの教導に真剣になった。彼女のためだけに時間を割くことも多くなった。そうして彼女と二人で過ごすうちに否が応でも彼女に女を感じずにはいられなかった。
エリーゼという妻がいるというのはわかっていた。だが、エリーゼは美しい良きパートナーであるというだけで女を感じることはなかった。出世街道を進むための装飾品。学園長の親族というだけでなんの苦労もなくそこにあるというだけの女。そして彼女の側もセインに求めているのは結婚しているという体裁だけだった。
反してミリアは生きるために必死に生きていた。そして明確にセインを好いていた。若く懸命に未来に突き進む彼女にいつしかセインは惹かれていた。
そして個人指導で遅くなってしまった夜、彼女と関係を持ってしまった。たった一度の過ちだった。
その夜から数ヶ月後、彼女から月のものが来ないと相談があったとき、セインは頭の中が真っ白になった。そしてミリアはセインの妻だとは露知らずに保健室の担当でもあるエリーゼにその件を相談してしまったのだ。
幸いにもエリーゼはこの件を公にはしなかった。だが一方で彼女は堕胎という恐ろしい命令をセインに下したのだった。
もしこの件が公になれば出世街道はおろか講師としてのキャリアも地に落ちるだろう。そうなれば一生エリーゼの助手として妻に頭も上がらない状態で生きなければいけない。それだけはセインのプライドが許さなかった。
やるしかない。そうセインは決意した
※※※
セインはミリアを自分の準備室に呼び出していた。薬は無味無臭でバレることはない。お茶に混ぜて飲ませてから別れ話を切り出す。相手が妻帯者だと知った以上、まだ若く未来ある彼女はおとなしく身を引くだろう。最悪金で解決すればいい。こちらが支払ってもいいし、妻が慰謝料を請求するかもしれないと脅してもいい。
しかしそんな邪な考えはミリアが泣き腫らした目で部屋に入ってきた時にはじけ飛んだ。
「先生……私、学園を辞めなくてはならないかもしれません……」
そして彼女は話しだした。お腹がどんどん膨らんで来たこと。胎児に影響が出るかもしれず、魔法実験に参加出来ないこと。それによって単位が足りなくなり、退学になってしまうこと。そして奨学金という借金を抱えたまま一児の母として社会に放り出されること。そして頼るべき親はもういないこと。
「私にはもう……先生しかいないんです。でも……」
ミリアは少し迷ってから言葉を続けた。
「先生には奥さんがいるのですよね?」
セインは大量にかいた手汗をズボンで拭った。ミリアはしばらく目を伏せたあと決心したように言った。
「先生。一つだけお願いがあります。私のお腹を思いっきり蹴ってくれませんか?」
ミリアの声は恐怖で震えていた。恐ろしい提案だった。
「それで全て解決するんです。お願いします」
ミリアは深い息をついて呟いた。
「はぁ、先生に奥さんさえいなければなぁ……」
ミリアが薬入りのお茶のカップを手にとった。そこから先はスローモーションのように見えた。
カシャン……
セインは思わずミリアの手を掴んでいた。床に落ちたカップが派手に砕け散る。しかしその光景もセインの目には入っていなかった。
「妻とは別れる」
その言葉を聞いてミリアがセインから目を背ける。
「でも奥さんは学園長の……」
セインは決意するように深く息を吐いた。
「ミリア、先生を嫌いにならないでおくれ」 「なりませんよ。絶対に」
ミリアは真剣な表情でセインの瞳を見つめていた。かつてエリーゼにここまではっきりと見つめられたことはあっただろうか。
「妻は薬草学の講師だ。彼女の研究室には大量の薬がある。そして彼女は不規則な生活をしているから毎日大量の栄養剤を飲む。それの一つを別の薬にすり替える」
セインは一息つくとさらに続ける。
「衛兵は薬を間違えたのだと判断するだろう。僕は悲劇に見舞われた夫のように振る舞い、喪が明けたら君と結婚する。それまでの費用は僕が持つ。それまで待っていてくれ」
「………………はい」
セインはミリアのお腹に手をあてた。そこには確かに新しい命の存在が感じられた。ついぞ妻とは恵まれなかった命に自分が後押しされているように思えた。
※※※
セインはエリーゼの不在の隙に研究室に入り、栄養剤の中身を毒とすり替えた。一切の証拠も痕跡も残さず、完璧に成し遂げた。
研究室から戻る時にエリーゼと出くわした。いつもなら会釈して終わりだが、これで最後と思うと感慨深くなり、食事に誘った。
セインにとってエリーゼは決して憎い存在ではなかった。ただ愛してはいなかった。それだけだった。
「それで、例の件はどうなりましたか」
エリーゼは心配そうに言った。それまで人形のように感情のない女だと思っていたが、面と向かって接して見ると決してそんなことは無かった。自分が妻を顧みてこなかっただけ。だが今更気がついても全てが遅すぎた。
「ああ、彼女は同意してくれたよ。かなりお金は払うことになりそうだが」
セインの言葉に、エリーゼは驚いたように目を見開いた。
「お金ですか? それはまたどうして」
「彼女は両親を幼くして亡くしているからね。それで必死に勉強して入ったからどうしても色々と必要なんだろう」
エリーゼが眉をひそめる。
「何を仰っているんですか?彼女のご両親は健在ですよ。というか彼女は両親の推薦で入りましたし。ほら、あの──」
エリーゼが出した名前はセインにも聞き覚えのある有名な教授だった。セインは狐につままれたような気分になった。
「まあでも上手く関係が切れたみたいで良かったです。あの子、どう見ても虚言癖のストーカーでしたからね。しかも私があなたの妻だと知ってて何食わぬ顔で相談して来たんですから相当たちが悪いですよ。その上あなたの子を身籠っただなんて馬鹿げたことを。まあ、例の教授の娘さんなので彼女の体裁を守るために薬は用意しましたけど。どうせ妊娠も嘘ですよ」
「ど、どういうことだ?」
セインの言葉にエリーゼは怪訝そうな顔をした。わけが分からなかった。彼女のお腹を触ったとき、確かに胎児の存在を感じたのだ。
「彼女と何かあったのですか? まあ、だとしてもあなたの子供なんてありえませんよ。だってあなたは種無しですし。まあもし彼女が何か言ってきても教授も彼女の虚言癖は──」
セインにはもはやエリーゼの声は聞こえていなかった。それからしばらく、セインは何をするにもうわの空の状態だった。全てがぼやけて見え、それからどうやって過ごしたのか覚えていなかった。同僚に熱でもあるんじゃないかと心配されるほどだった。実際、酷く気分が悪かった。
エリーゼの栄養剤をすり替えたままだということに気づいたのはその日の夜だった。恐ろしいことをしてしまったという実感が急速に襲ってきて、気がつくとセインはエリーゼの研究室に全速力で走っていた。このままでは長年連れ添ったパートナーを殺してしまう。たとえ許されないとしても彼女に謝ろう。そして自分の人生を妻への償いに費やそう。
セインはそう決意して研究室の扉を開いた。
「どうしました?」
エリーゼの声を聞いてセインは安堵した。生きていてくれた。涙が溢れ落ちてきてまともに彼女の顔が見えなかった。彼女に伝えなければならない。しかし声を出そうにも息が切れていてまともに用を呈さなかった。
「大丈夫ですか? 凄い熱ですよ。待ってて下さい、今なにか飲み物を持ってきますから」
エリーゼが瓶を差し出し、セインはそれを一気に飲み干した。そしてようやく一息ついたとき、その瓶のラベルを見て固まった。
「それがどうかしましたか? 今私が飲もうと思っていた栄養剤ですけど」