ST6 彷徨の岩窟
カリメアの迷宮第一階層。通称『洞窟』。およそ人工物とは思えない精巧な岩に包まれた空洞が広がり、それ以外には何もない。植物も、水も、一切の灯りさえも無い空間だ。
日光が差し込まないためか、気温は全体的に比較的低温で保たれており、慣れていなければ低体温症となることもあるかもしれない。また太陽の光が無いために、睡眠のリズムも狂い、結果的に時間の感覚が狂う事で起こる生活リズムの乱れや、それによる精神的な異常が体調不良を引き起こす。
とは言え、ここは迷宮の口ともいえる第一階層。魔物は危険ではあるが、死に直結するような危険性は無く、そもそもここを克服できない者は、迷宮探索には向いていない。
だからと言って楽な道という訳ではない。出来るだけ早く抜けてしまいたい。
迷宮第一階層を抜けた最も早い記録は、一日程度だというらしい。ならば、一日は無理だとしても、野営は一回に済ませたい。
「早めに抜けましょう」
手早くランタンに火を灯しながらそう提案すると、迷宮を舐めてるとしか思えない道着姿のレグルスは、筋肉質な腕を組みながら頷きを返した。
「こっちです」
迷宮の地面が淡く光る。それは魂の色であり、生者が漏らした残滓だ。
私は精神を集中させ、『魂を視る魔法』を行使し、道をつぶさに観察しながら歩みを進める。
魔法の行使はエネルギーを消耗する。だからこそ通常は、魔法を常時発動させることなどしないのだが、この魔法は正しい道を知るための魔法だ。常時発動が前提となる。
特にこの洞窟エリアは、不定期に再構築され構造が大きく変化する。その上、仕掛けにより壁に隠された隠し通路の存在も報告されている。それを見逃さないようにも、常時発動させる必要があるのだ。
乾いた音を立て歩みを進める。そうして暫く。沈黙を嫌ったか、心を決めたか知らないが、おもむろにレグルスが口を開く。
「案内人」
「……テルミニです」
「……すまない」
一拍の沈黙。あまりの不器用さに、少しだけ微笑ましく思えた。
「テルミニ」
「なんですか?」
「出身はどこなんだ?」
唐突な私自身の掘り下げに疑問が浮かぶも、数秒置いて納得する。
どうやら、彼は彼なりに私に歩み寄ろうとしてくれているらしい。これは彼にとっての世間話なのだろう。
探索者チームは総じて仲が良い。それは、迷宮という閉鎖空間で無駄なトラブルを起こさない為でもあるが、そもそも迷宮内で共に長い時間を過ごすのだ。仲が良くないと、そんなものやっていけないだろう。
私も、不仲よりは親しい方がいい。彼が不器用なりに歩み寄ったのだ。無碍には出来ない。
「ここより少し南の地域です。今ではこんなことをしてるけど、これでも貴族の家の出なんです」
「そうか」
沈黙、今度は少しだけむず痒い。
「テルミニ」
「なんですか?」
「好きな食べ物はあるか?」
「んー……はしたないですけど、やっぱり肉ですね。笑う狼亭知ってます? あそこの鶏肉のソテー、絶妙な味付けでお気に入りなんです」
「そうか」
沈黙、にはならなかった。あまりの可笑しさに、私が吹き出してしまったからだ。
突然笑い出した私にレグルスは困惑を隠せないようで、目を丸くしていた。その容姿が更に可笑しくて、私は腹を抱える。
「フフッ……質問を投げるだけじゃあ、会話は弾みませんよ? これじゃフフッ、尋問です」
「そうなのか……」
レグルスは反省する子供のように視線を落とす。
「昔からソロだった訳ではないんですよね?」
彼の持つ命輝晶の件もある。その命輝晶を渡した人物と、大樹の下に眠る人物。最低でもその二人とは、昔はチームとして活動していたのだろう。
「あぁ」
「その様子で、前のチームとは仲良くできたんですか?」
「あぁ、皆俺を仲間として認めてくれていた」
「へぇー……。でも珍しいですよね、迷宮に空手で挑むのって」
「いや、俺も昔から剣を持たなかった訳ではない。剣も振った、弓も引いた。だが、どの武器にも利点がある代わりに欠点がある。剣は適切な間合いでなければ真価を発揮しない。懐に潜り込まれれば振れず、遠すぎれば無論当たらない。弓は弦を引く時間が要る。咄嗟の状況には対応できず、もし矢を放てたとしても避けることも容易だ」
「な、なるほど」
いや、避けられないだろ。という言葉は口に出さず呑み込んだ。
「それに、全て道具に頼り切っている。刃が折れれば、弦が切れれば、出来ることは無い。ならば、どんな状況でも振るえ、文字通り自身の身体の一部である、拳を振るうのが最適解だろう。幾年か前、その結論に至ったのだ」
「およそ常人とは思えない思考回路ですね……」
とは言え、彼の実力は本物だ。
常識から外れた者を狂人と呼ぶのなら、常人には出来ぬことを為すのも狂人だろう。それはまた、英雄とも呼べるかもしれない。
「じゃあ剣も出来るっていうことですか?」
「あぁ。昔は剣を握っていた」
「はぁ……」
レグルスが剣を持っている姿を思い浮かべる。
筋骨隆々の腕に収まる銀色の剣。彼の腕と比べるとそれはまるで小枝のようで、どうにも不格好だ。
「……想像できないですね」
「事実だ」
「別に疑ってるわけじゃないですよ。ただ……うん、想像できない」
先入観もあるが、レグルスが剣を握っている姿は想像できそうになかった。まるで小枝を振るう子供っぽい大人ではないか。とてもではないが、想像は難しい。
「そう言えばなんですが、そのお仲間さんとはぐれたのはいつなんですか?」
「……十年ほど前だっただろうか」
「え、そんなに前なんですか!?」
驚きを隠せず、思わず大声を上げてしまう。私の叫びが迷宮に反響し、何重にもこだました。
レグルスの持つ命輝晶には、確かに誰かの魂の輝きがあった。それはつまり、命輝晶に魂を分けた人物が存命しているという事を指す。
迷宮は、言わば超危険地帯のミルフィーユ。そんな、およそ地上のどこよりも危険な場所で、十年も生き延びているというのだ。驚かない方が嘘である。
まぁ、階層が低ければあり得ない話でもないが。
「魔物になってたりしませんよねそれ……」
迷宮に跋扈する魔物。二つ名持ちを含め、奴らがどう繁殖しているかは不明だ。あくまで噂だが、迷宮で行方不明になった者は魔物になるという噂もある。
噂を信じている訳ではない。少し黒い冗談のつもりだ。口に出してから、少し不謹慎だったと後悔したが。
だが、レグルスは意に介していないようだった。
「分からない。だが、……彼女は迷宮で一人生き延びることの出来る実力者ではある」
「……とんだ大英雄ですね」
実力者のレグルスの仲間も、どうやら実力者であるらしい。それと彼の言葉から汲み取るに、レグルスに命輝晶を渡した人物は女性であるようだ。
「同じ村の生まれだが、彼女の才能にはいつも憧れてばかりだ」
「出身同じなんですね。因みに、何階層でその人と分かれ――――」
レグルスが片手で私を制する。指示通りに口を噤むと、小さな蠢きが徐々に距離を詰めてきているのが分かった。
何かがこちらに向かってきている。それも、足音からして人ではない異形の存在、さらに複数体だ。
レグルスは構えを取り、私は腰に佩いた剣を引き抜く。同時に、鞄の中に手を伸ばす。契約の内容的に私が戦う必要は無いが、レグルスに頼り切って自衛をしない程愚者ではない。自分の身は自分で守る、当然のことだ。
「テルミニ」
「分かってます」
大きく振りかぶり一投。
私の投げた物により、洞窟内が白い光に満たされる。昼間のような明るさは、もはやランタンの光など比べ物にならない。
これは、投げれば即座に昼間の太陽のような明かりを放つ、探索者必須の便利アイテムの一つ光弾である。これによって、灯りに気を留める事無く洞窟で戦闘することが出来る。
しかし欠点は、効果時間が非常に短いこと。それに、一つ買うのにかなりお値段が張る事である。
足音は、最早耳元にいるかのようで、カサカサという蠢きは大きくなる。そろそろ姿が見え……ん、カサカサと?
「ひっ」
縊られた鶏のように、喉から掠れた悲鳴が漏れる。それは、圧倒的な嫌悪感によるものだ。
突然だが、迷宮に存在する魔物は、得てして人間の姿形から逸脱した異形の存在が殆どである。
ある魔物は巨大な竜だ。骨も残らぬような灼熱の業火を吐き、大きな翼をはためかせ空を飛び、鎧を切り裂く爪や牙は鋭く硬い。
またある魔物は砂を潜る鮫だ。さも水中のように自在に砂中を泳ぎ、気付けば足元でその大口を開いている。
そして今、眼前にいる魔物は――――。
「う……うぎゃぁぁぁぁぁ!!!」
「落ち着け」
ガサガサと耳障りな音を立て這い寄る黒い影。実際に統計を取ったことは無いが、探索者に迷宮で一番嫌いな魔物を訊けば、十人の内八人がこの魔物と答えるだろう。回答者を女性に限定すれば、満場一致も夢じゃない。
強い訳ではない、面倒な訳でもない。ただただ、おぞましい外見なのだ。かく言う私も、この魔物に対する精神的な嫌悪感は凄まじい。
奴らの群れは私達と少し距離を保ち制止し、品定めするように触覚を動かした。
それは、迷宮第一階層に巣食う、成人男性の上半身程の巨大な昆虫型の黒い魔物ケイブローチ。
通称大ゴキブリである。