ST58 未だ夜は深く
「……ほんと、遅いですよ」
テルミニの言葉に、レグルスが得意気に口の端をほんの少し吊り上げる。ただ、テルミニに岩のような表情筋と陰口を叩かれるような男だ。その変化は、注視せねば気付けぬもの。
ただそれでも、微笑みを浮かべていることは確かであった。
「あら! その子がお話しくださったテルミニさんですわね!?」
ふと、第三者の声が掛かる。ベリィのものでも、ルルディのものでも、ベグラトのものでもない。今までテルミニが、聞いたことの無い声。
そんな声を受け、テルミニは振り返る。
「お初にお目にかかりますわ! 私は八雲百合! またの名をカペラ・トラウゴットと申す者ですわ! 以後、お見知り置きを!」
「貴女が……」
声を発したのは、ベリィを横抱き、所謂お姫様抱っこにしながら立つ、上背のある女であった。
ベリィ、ルルディ、そして春夏冬と同じ、夜空を切り取り撚ったかのような黒髪は一つに束ねられ編み込まれ、後頭部から垂らしている。
眼窩に嵌め込まれているのはやはり、曇り無き透き通ったオニキス。この二つの情報だけで、このカペラと言う女性が先述の彼女等と同じ葬送の出であることを示唆していた。
目尻が吊り上がったその眼は威圧感とエネルギーを感じさせる。心なしか、双眸に宿る眼光も獣のように鋭い。その目力だけで、有象無象は怯んで動けはしないだろう。
熟れた唇は瑞々しく、白磁の如き肌はやはり誰も踏んでいない薄雪のようだ。その筋肉質な身体は和装に覆われており、胸元を膨らませるその中々の双丘は一切揺れていない。得物は、その両手の指先を覆う鉄の爪だ。
全体的に、エネルギッシュな美人と言っていいだろう。ただ、たった一つだけテルミニに違和感を感じさせる点があった。
「お、やはり気になりまして!? 申し訳ございませんが説明は後に! 長くなってしまいますわ!」
ぴくぴくと、その耳が動いた。黒い毛に覆われた、狼のような耳が。
そう、彼女はその頭頂部に、狼の如き耳を生やしていたのだ。とは言え、髪の隙間から人間の耳もちらりと視界に映る。
獣の耳を生やす女。見たことも聞いたことも無い。恐らくは、何らかの魔法の効果だろう。等と考えつつ、彼女は過去の記憶を呼び覚ます。
『例の作戦ですけど、一つ提案が』
迷宮都市から馬車を用い裏街に向かう最中、ルルディと交替し御者台に座るべリィはテルミニに告げた。
『例のって……レグルスさん囮作戦ですか?』
テルミニは馬車の後方で静かな寝息を立て眠るレグルスに、少しだけ視線を移す。
『はい。テルミニさんはレグルスさんの実力を信用しているかもしれませんが、私達はそうではありません』
『あー厳密には私は信じているよ。かのレグルス殿だ。仔細は言えんが、私は彼に全幅の信頼を寄せている』
腕を組みながら、鼾一つ立てず眠っているレグルスを視界に収め、声を潜めるベリィと悠々と語るルルディ。
『ルルディは黙ってください。……そこで提案なのですが、私達が信頼する仲間も、その作戦に加えると言うのは如何でしょうか?』
『ベリィさんたちの仲間……ですか……』
ベリィは御者台からテルミニに向けていた視線を前方に戻し、頷く。
『私達、最後まで薊様に仕えていた従者の中から、例外を抜けば最も強い者です。名を百合、姓を八雲。迷宮都市では、カペラ・トラウゴットと名乗っている筈です。面白い人ですよ』
『考えるより行動するタイプだ。少し……物理的に変わってはいるが、良い奴だよ』
『物理的……?』
納得だった。確かに、物理的に変わっている。
頭頂部に狼の耳があるのもそうだが、それが彼女の耳という訳でも無いようだ。掻き上げられ、頭の後ろで編んだ末に垂らされていることにより露わになっている側頭部に、確かに血の通っている血色のいい人間の耳がある。
どちらも彼女の耳なのか。音は二重に聞こえるのだろうか、それとも、片方だけしか聞こえないようになっているのだろうか。
そんな好奇心を振り払うために頭を振る。今は戦闘中だ、彼女の言う通り、詮索は後にしよう。
「カペラ……いつまで私を抱えてるつもりですか?」
ふと、ずっと彼女に抱えられていたベリィが、不満そうに声をあげた。
どうやら、空中に投げ出されたベリィを抱えて助けたらしい。倍はあるのではないかと錯覚するほどの上背にすっぽり収まるように、ベリィはカペラによって横抱きされていた。
「おぉっと! 忘れてましたわ! 怪我はありませんこと!?」
「……貴女の猫手が少し食い込んだ以外は。暫く手紙のやり取りでしたが、変わりませんね百合は」
「そんなことありませんわ!! 私、少し背が伸びたんですのよ!」
抱えていたベリィを下ろし、ニカっと周囲も吊られて笑顔になるような清々しい破顔を見せるカペラ。しかしその破顔も、一瞬で潰える。
小刻みに狼の耳が震え、レグルスの攻撃により怪物が吹き飛んだ方向を見据えるカペラ。そして同時に、レグルスが拳を構えた。
そう、戦いはまだ終わってはいない。
未だ晴れぬ土埃の中。微かな動きにより石畳の欠片が微かに擦れ、硬い音を立てる。その音は徐々に、激しさを増していく。
身体を起こすように力強く、その肥大化した腕が大地を押さえ付ける。その身に被っていた小さな石の破片が、身体が起きるにつれてぱらぱらと大地に堕ちる。
「――――――――!!!!!!!!!?????????????」
何かが吠えた。
大地が揺れる、空気が震える。その風圧に、入道雲のように絶えず立ち昇っていた土埃も瞬時に消え失せ、四人の視界が明瞭になる。
薄桃色の肉体には、網目のように幾つもの血管が浮き上がっている。刀のように長く、そして鋭利な爪には黄金色の奔流が渦巻き、それ自体が金色に染め上げられているようだ。
冬に吐く息の如く白い吐息を吐き出しながら、口腔と思わしき胸に空いた一つの孔が開閉を続ける。その孔を中心に、木々のようにうねり捻じれた幾本もの牙。
およそ、それが肉を引き千切り噛み砕く、牙としての役割を果たすかどうかは怪しい。だからそれはただ単に、怪物の禍々しさを後押しするような、装飾のようにも見えるかもしれない。
先刻と何ら変わりない、怪物が再び立っていた。
「あれがベグラトの言っていた敵か」
「生物としての形を完全に逸脱してますわね! ……まるで子供の落書き、出鱈目ですわ……!」
「奴は魔法を使います。お二方、お気を付けて」
「連携しましょう。レグルスさん達も合流した今、戦力は二倍以上です。きっと――――勝てます」
テルミニは黄金に染め上げられた瞳を凝らし、怪物の一挙手一投足を観察する。
傷は完全に癒えたらしい。彼女ら二人が奮戦し切り飛ばした腕も、疾うに再生を果たしていた。ただ治癒の対象である身体の損傷は、黄金色の光を浴びた後のものしか適応の範囲には無いらしく、その頸には未だ毒々しい程に煌びやかな黄金が宿っている。
しかし怪物は大きく離れた四人の元に寄るでも、魔法を扱い岩を浮かすでもなく、ゆっくりと右手を前に突き出す。
警戒に四人が構える。ベリィとテルミニが得物を構え、レグルスとカペラが静かに腰を落とした。
そして怪物はそのまま――――その場で横に払った。
「……?」
刹那の逡巡。テルミニの脳内に困惑が過る。
今、怪物は何をしたのか。何のために腕を突き出し、そして横に薙いだのか。
眼前の怪物には間違い無く、人間と同程度の知性がある。そのような知的生命体が、この緊迫した戦闘状態で意味の無い動作をする筈が無い。
何か意味がある。そう、確実に。それは確信だった。
困惑による思考の加速。警戒による深い集中状態。敵の実力を認めた上での信頼。そして、時の運。それらが偶然あったからこそ、テルミニは勘付けたのかもしれない。
「……――――ッ」
迫り来る何かを感じ取ったテルミニが、大きく上体を反らす。そして、それとほぼ同時に、テルミニの頭があった空間を撃ち抜く――――。
「レンガ……ッ!」
この辺りでレンガなど、ある場所は一つしか無い。海の如き血だまりが満ち、茶会の跡と命輝晶を宿しつつ、通る者の生気を吸うように月夜に冷たく聳える、レンガの建造物しか。
テルミニの叫びを、この場にいる全員が解した。
横向きに振るレンガの雨。怪物によって操られたそれらが、弾丸のように四人に襲い掛かる。
「ハッハぁ! 本当にあの化け物が魔法を使うんですわね! これは滾るッ! 滾りますわァ!!」
「カペラ! 黙ってください!」
カペラが凡そ人間離れした柔軟さと膂力で、饒舌をふるいながら楽し気に正面からレンガを打ち砕く。対するベリィが、その柔軟さと素早さを活かし器用にレンガを避けながら、恍惚の表情を浮かべるカペラを咎めた。
「っ……隙がッ、無いっ……」
剣で受け流すようにしてレンガの軌道を変え、テルミニが苦悶に喘ぐように絶え絶えに零した。
弾いても、逸らしても、避けても、砕いても次弾が既に眼前に迫っている。少しでも意識をレンガ以外に割いてしまえば、その矮躯のどこかが確実にレンガの弾丸によって撃ち抜かれるだろう。
その上、切りが無い。
凡そ三階はある建造物だ。一つ一つの大きさがテルミニの手のひら二つ分ほどのレンガなど、いくつ使われているかも分からない。しかし、膨大な数だろうということはこの場にいる誰もが理解できている。
「む……」
それから数十秒か。四人はレンガを凌ぎ続けていく。剛速で飛来するレンガのストレートは、常に全力の素振りを要求する。人間である以上、体力は徐々に減っていく。
そんな中、レグルスが低く漏らす。レンガの弾丸の供給元であるその屋敷に、確かな違和感を感じて。
「テルミニ!」
「はい!?」
「屋敷だ!」
レグルスに言われ、テルミニは弾丸の合間を縫うように屋敷を視界に収める。
白い満月を背景に冷たく聳える豪邸。二階部分のガラス張りはベリィと怪物によって永遠に開きっぱなしになり、一階部分は虫に食われたようにレンガが抜け穴だらけだ。
テルミニの瞳孔が開く。気付いたのは、現在の状況を考えれば至極当然のこと。
このレンガの弾丸は、もともと屋敷にあったものなのだから。それが無くなれば当然――――。
「まずいまずいまずい崩れる崩れる!!」
支えとなっていたどこかのレンガが抜け重心がズレたのか、屋敷から大地を震わせる重低音が鳴り響く。そして建物は徐々に傾き、速度を増しながら四人へ向かい倒れ始めた。
乱雑にレンガを弾丸とするだけでなく、これこそが怪物の狙いであったのだ。
逃げることは、現在も尚飛び交うレンガの雨によって叶わない。そもそも、移動することすらも難しい状況であったのだ。
詰まるところ、避ける方法は無い。
「厄介ですわね! レグルス様!」
「無論だッ!」
「ここは私たち二人に……――――」
レグルスが弾幕の合間を縫い、テルミニを抱き抱える。何かを察したようにベリィが、カペラの広い背中に隠れた。
彼女らに向かって押し寄せるレンガの高波、それを前にしてカペラがニカッと笑う。狼の牙の如き鋭い犬歯が、白く光った。
「――――任せてくださいまし!! 玄武の臨ッ!!」
「ふっ……」
レグルスの吐息の音、カペラの叫び。それらの音はやがて全て、地響きのような音を立てて倒れるレンガの壁に吞み込まれていく。
そして、轟音が夜空を劈いた。




