ST56 闘志は未だ
怪物により振り下ろされる歪んだ腕を、私は凹みの目立つ剣で弾き上げる。
まるで手を叩いたように大きな、爆ぜるような音が鳴ったかと思えば私と怪物は既に、幾度ものやり取りを交わしている最中であった。
――――……強い――――
突き出された拳を受け流し、剣の腹を叩き付ける。激しい衝撃音と共に、怪物の腕が石畳に墜落した。
私は思考する。
先刻の、命輝晶を砕き割る直前と今の怪物の動きは、明らかに違う。
そこには、拙いながらも技術があるのだ。
獣の如き考え無しの攻撃行動。腕を力いっぱい薙げば、体制が崩れてしまう。大きく腕を振り下ろせば、地面へ衝突する衝撃で自身の腕にもダメージを負う。
そんな当たり前のことでも、理性無き獣は理解できない。
しかし、眼前の怪物はどうだろうか。
「――っ」
怪物が拳を突き出し、それは私の頬を掠める。はらりと舞う私の飴色と鮮紅色が、自身の視界にも映った。
腕は一本降りぬいた直後。それも、私の頬のすぐ隣だ。腕を引き防御するのであれば、風の動きで即座に感知できる。引かぬというのであれば、この好機を逃す手は無い。
大きく、強く一歩を踏みしめ。刀身を、振り抜かれた怪物の腕を這わすようにして私は振り被る。
その銀の光を称える鋭い刃の軌道上には、確かに怪物の脇腹が存在している。
首は無い。斬れない。なれば、細切れにして二度と動けないようにするしかない。まずは逆袈裟で、その邪魔な腕ごと刻む。
しかし刹那、視界に激しいモーションブラーが掛かった。そして、私の身体に掛かる横向きの重圧。
突き抜いたその腕を、奴は更に薙いだのだ。
視界が急転し、気付けば怪物の姿は遥か遠い。腕を振り抜いたその姿勢の怪物からは、やはり湯気の如き黄金の煙が立ち昇っている。
「っは……!!」
凄まじい衝撃音と共に屋敷の外壁に叩き付けられる。肺が驚くように萎み、飛沫と共に強制的に吐息が溢れ出した。
手から剣が零れ落ちる音が虚しく響いた。
視界が思わず滲んだ涙によってぼやける。その最中、怪物が大地を蹴り抜き迫っていた。
このまま奴の攻撃を受ければ致命傷では済まない。確実な死が訪れてしまう。避けなければならない。しかし身体は――――。
――――痛ッ!?――――
どこかの骨に罅でも入ったらしい。息をする度に、新鮮な痛みが全身に迸る。
身体はまだ動く。戦闘は始まって間も無く、体力はまだ余っているのだ。しかし、唐突に訪れた痛みによって私の動きは一瞬だけ止まる。
ただ、戦闘において勝敗を分けるのは、常に一瞬だ。
怪物が拳を構え眼前にまで迫っていた。怯んだせいで、防御の姿勢すら取れない。私に出来ることは衝撃へ心の準備を備え、受け身を取りさらなるダメージを抑えるのみ。
しかしその思考は、いい意味で意味を成さなくなる。
「――隠狐」
黒い糸がはらりと舞い、私と怪物のすぐ隣に小さな影が躍った。
「香車の形!!」
衝撃が怪物の拳をずらし、私のすぐ右に逸れる。
屋敷の壁が破砕する音を特等席で聞きながら、私は生まれた隙を逃さぬよう息を整えた。
その最中、私は少し前の出来事を思い出していた。
『にしても、よく無手で剣とか壊せますね。あれ鉄ですよ? 金属ですよ?』
第一階層にも潜るその前。私達がギルドで合流し、市場に向かう時の話だった。
レグルスの強さの理由を少しでも盗むことが出来たのなら。そう思い、さり気なく質問したことがある。
私が彼の顔を見上げそう訊ねると、彼は何も得意気にすること無く自身の拳を握り締め、見つめながら言っていた。
『何てことは無い。コツがある。それだけだ』
『それだけだったら人間の歴史に武器なんて無いんですよ……』
そう私が呆れるように告げると、彼はどうしてか。立ち止まり、そして握った拳を腰に据えた。その、腰に巻いた帯の隣に。
「力を抜いて、腰に添える……」
自身の手を、記憶の中のレグルスをなぞるように腰に添える。腕と衣服が擦れ、小さく叩くような音を鳴らした。
一歩引き、両の脚で大地を強く踏みしめ、深く息を吸う。
「ッ……――」
刹那、胸部を中心に全身に迸る激痛。ただ構うことは無い。
肘を締め、腰を捻る。
この宙に舞う汗と涙と血の飛沫すらも、一粒一粒数えられる一瞬の集中状態。
ベリィが得物を突き放った体勢で、悲痛の表情で私を見つめている。怪物が腕を唸らせ、再び私達を薙ぎ払おうとしていた。
駆け抜けるこの痛みこそが雑念を消し去り、無我の境地ヘと至らせる――――。
「――……はぁッ!!」
衝撃、そして遅れて訪れる轟音。
直撃による衝撃波は大地に転がる命輝晶の破片や砂埃を吹き上げ、さも嵐のように巻き起こった。
怪物が大きく吹き飛ぶ。地面を数度転がり、数度跳ね、しかしその最中で思い出したかのように受け身を取り、体勢を立て直す。
受け身を取った。やはり、あの怪物には理性がある。そして、知性がある。
その光景を視界に収め確信を抱きながら、私は自身の腕を盗むように見ていた。
「……」
驚くべく膂力だ。この細い腕にそれ程の力が籠っているとは、到底思えない。
憎たらしい師匠は、私に言ったことがある。この世で最も一番怖いのは野生動物でも、二つ名の魔物でもない。理知たる獣、人間であると。
師匠は性格に難ありだが、その腕だけは確かだ。だからこそ、その言葉は私の中で重く落ちた。
魔物に理性は無い。その行動は本能に忠実であり、それは自然の摂理とも言うべきだろう。だからこそ、許しはせずとも理解は出来る。魔物も生きる為に、眼前に立ち塞がる獲物を殺すのだ。
ただ人間はどうだろうか。ただ地位や金銭欲と言う下らぬ欲求の為に、ただ湧き上がった己の劣情の為に。誑かし、嬲り、弄び、殺す。卑劣極まりない。その行動には理性がある、到底許されない事だ。
だからこそその悪意に屈さぬよう、私が身に着けた技術は人に対するものだった。私は荷物も持てない非力故、その本質は柔を以て剛を制すというもの。
その為、私にこのような膂力は無い筈だった。
「助かりました、テルミニさん」
「……あぁ。いえ、私のせいなので。取り乱してしまい申し訳ない」
「構いません。あの一瞬で何が起きたかは私には分かりかねますが、あの狼狽具合からこの状態まですぐに立ち直る事なんて、並の方には出来ませんよ。テルミニさん、貴女は強い人です」
私が剣を拾い上げると、砂埃に汚れた顔で彼女は微笑んだ。思わぬ誉め言葉に、私は一瞬返事が遅れる。そして、呆けたように反射で感謝を返していた。
「……あ、ありがとうございます」
異音。私は再び、黄金に染まった視界で前を見据える。
怪物がむくりと起き上がった。
傷一つ無いその身体から砂埃がポロポロと零しながら、奴はゆっくりと私達に向き直る。
やはり第二階層の怪物と同じで、生物を逸脱したかの如き再生能力を備えているらしい。
敵は恐ろしい程の再生の力を有した化け物、対してこちらは華奢な少女二人。その内の一人は、どこかの骨が折れている。
「……ハッ」
笑ってしまう程不利な状況だ。
ただ、目の前の敵を討ち滅ぼすだけが勝利ではない。今ベグラトが、レグルスを呼んでいる真っ最中だ。そして事前の作戦通りなら、彼ともう一人頼もしい助っ人が来る。
この怪物は、我々の作戦に突如現れた異分子だ。しかし同時に、目的に近付く鍵にもななり得る存在。
仮面の女の正体、命輝晶と茶会跡の謎、そしてそんな場所に侵入した我々に立ち向かう怪物。
魂狩りとは無関係。そう考えるほうが違和感がある。
だからこそ、我々が敵を試す試金石足りうるのだ。
「なっ」
怪物が高く飛び上がった。それはまるで梟のように音を立てず、ふわりと風に巻き上げられた木の葉のように。そして刹那、空中に浮かび上がる幾つもの数え切れぬ岩、岩、岩塊。
そういえば怪物が起き上がる際、奴は地面に散らばった命輝晶を必要に砕いていた。
命輝晶に宿るのは魂。葬送の目的は魔法持ちの魂の回収、即ち魂狩り。黄金の奔流は魂のエネルギーだ。
とすれば、魂のエネルギーを受け起き上がった怪物は、魂のエネルギーを回収している。詰まる所、魔法持ちの魂の回収――――。
宙に浮かぶ岩石がゆっくりと動き出す。それは徐々に速度を上げて自由落下し、さも隕石の如く頭上に迫り、その陰で我々を覆った。
「魔法が来ます!」
岩石が自由落下する。数え切れぬほどのそれは流星の雨の如く、私達を殺さんと降り注いだ。
極大の範囲に、自由落下を続ける岩石の直径は私の身長を優に超えているものもある。浮かび上がったその高さは四階建てはあり、そこから落下するエネルギーは計り知れない。
どう考えても避けきれない。
だがどうだろう。今の私は先刻からこの身に燻って止まないこの自信に、根拠があるか試してみたくて堪らないのだ
「剣を成せ……っ!」
「盲猿の形!」
透明が刀身を覆う。まるで凹みを埋めるようにそれは流れ、薄く、しかし元よりも鋭い刃となった。




