ST5 矛盾と齟齬
首が痛くなるほど見上げても、頂が見えることは無いほど高い。雲を突き抜け、蒼穹に繋がっているのではと思えるほどだ。それはまるで、大地が浮かぬように神様が深く打ち込んだ杭のようで、神秘的とすら思えてくる。
尚、私は無神論者なので神は信じていないが。
現在私達がいるのは、カリメアの迷宮の手前100メートルほどにある、探索者用の市場だ。
少し割高だが、水や食料は勿論、武具や食器に調理道具、羊皮紙やランタン、煙草や酒類などの嗜好品、替えの下着や魔物の出現情報に至るまで、ここに来れば探索者に必要な全てが手に入る。
お金に余裕はあるが、街で歩き回るのは面倒だという方は、ここで物資を揃えるのがいいだろう。
生憎、お金に余裕はあるが貧乏癖の付いた私は街を練り歩き、調味料から危険物に至るまで、既に必要な物は買い揃えてあるので必要なものはあまり無い。
小金持ちとは言え、貧乏性はそう簡単に治らない。
「魔物の情報だけいいか?」
「あ、なら私も行きます」
情報屋が視界に入ったのか、レグルスは情報を買いに歩み寄っていく。それに重い鞄を背負い直し、追行する私。
流石、迷宮にソロで潜っているというだけはある。情報を街で妥協せず、ここで買うとは。
基本的に、この探索者市場は割高で何かを買う意味は無い。しかし、情報だけは別だ。ここと街では、情報の鮮度が違う。迷宮から降りたばかりの探索者から、即座に情報が齎されるのだから。
魔物とは、迷宮内に出現する不思議な生物だ。大半が人間に対して良からぬ感情を抱いているのか、我々を視界に収めた端から襲い掛かってくる。
その種類は大きく分けて二種。竜、巨人等の、主に迷宮の外にも存在しているような普通の魔物。そして二つ名持ちと言われる、強大な力を持ち総じて黒い体皮に覆われた魔物。
普通の魔物なら、私とて探索者の端くれ。人並みには武器は扱えるし、それを用いて撃退もできる。が、二つ名持ちなら事情は異なる。出来れば遭遇は避けたい。
情報は魔物だけではない。
迷宮の構造は、何も常に一定という訳ではないのだ。不定期に再構築する迷宮は、例え第一階層であったとしても、入口から次の階層までの最適なルートというのは存在しない。
魂を視るだけでは回避できない罠も存在する。そんな各階層の変化の状況の情報も、案内人にとっては必要なものだ。
私は一応街で情報を仕入れてはいるが、レグルスが情報を買うついでに、情報が最新のものかどうか確かめるのもいいだろう。
「あら、レグルスはん! ご無沙汰やね!」
レグルスが立ち止まったのは、頭に紫紺の布を巻いた一人の少女の眼前だ。彼女は積み上げられた黒パンや干し肉等の前に立ち、一見人当たりのいい笑顔を浮かべている。
しかし、その微笑みはどこか陰を湛えており、底の知れない黒さがちらりと覗く。
レグルスは情報を買いに行くと言っていたが、これはどう見ても食料を扱う露店ではないだろうか。
「情報を頼めるか?」
「レ、レグルスさん? ここ食料屋さんじゃないんですか?」
店主に聞こえぬように私が小声で素朴な疑問を口にすると、その問いにレグルスが答える前に、少女がにやにやと気味の悪い笑みを浮かべながらにじり寄ってきた。
「あれ? 見ない顔やねー……もし、恋人!?」
「は?」
レグルスが明らかに不満そうに眉を顰める。快活そうな少女ではあるが、冗談の才は皆無のようだった。
童顔で全体的に整った顔立ちで、平坦な胸部は幼さを強調するようだ。くりくりとした可愛らしい黒い瞳はこの辺りでは珍しく、少し太い眉が印象に残る少女は、私達が困惑を露わにする様子を見て何が可笑しいのか一人で大笑いした後、ひらひらと手を振った。
「堪忍してくれや! 新しいお仲間やろ? 分かっとるって」
そう言うと少女は私に対し向き直り、大げさな素振りで腰に手を当て、査定するような視線を私に向ける。
この辺りでは珍しい黒髪がひらりと舞い、黒水晶のような瞳に困惑を浮かべる私が映った。
「それにしても一人だけ? あぁ分かるで、かのレグルスはんは何でもできるから、仲間なんて何人でも変わらへんってことは。せやけど、キミもよく仲間になろう思ったねぇ」
「あの……貴女は……」
「あ、自己紹介がまだやったね」
その言葉を皮切りに、少女の纏う雰囲気が変わった。
先程までが、子供に好かれるお姉さんのような人懐っこく明るいであったのが、今の彼女を例えるなら一国の王女のような、妖艶で高貴なものに。
快活な破顔は消え、まるで吸い込まれるような、魔性の微笑みへと。
「私、姓が春夏冬、名を薊という者です。……ここで商人やらせていただいとります。レグルスはんには、よく贔屓にしてもらってるんよ」
おかしな口調の商人、春夏冬は深く一礼した。
「実力は確かだ。内面以外は信用している」
「はは、おおきに。で、こちらの方は?」
纏う雰囲気はすっかり消え、苦笑を浮かべる春夏冬に促され私は軽く自己紹介をする。
「テルミニ・テセス・ローレンライトです」
「あぁ、あの! 実物を見るのは初めてや!」
私の名を聞いた途端、ぽんと何かに閃いたかのように手を叩く春夏冬。私は彼女の事を知らないが、彼女は私の事を一方的に知っているらしい。
「私の事、知ってるんですか?」
「知っているも何も、テルミニはんとレグルスはんが組めてるのは、ぜーんぶ私のお陰やで?」
「それはどういう……」
「俺が魂の見える魔法持ちを探していたのを、春夏冬に手伝って貰っていた」
「あ、なるほど」
私と初対面の時、確かにレグルスは私を探しているような口ぶりだった。あの時には、春夏冬によって私の情報が齎されていたという事だろう。
私は身分を隠している訳ではない。探そうと思えば探せるだろうし、彼女が私の情報を知っていたのも、何も不思議なことではない。
「テルミニはんの疑問に答えると、実はうち、何でも扱ってますさかい大丈夫よ。御覧の通り食糧、武具や服もやけど、情報も扱ってます。テルミニはんの情報は、少し苦労しましたけど。とは言え、流石に……法に触れるものは扱ってませんけど」
語尾が上がる独特なイントネーションで、視線だけをレグルスに向ける。この仕草から見るに、レグルスの命輝晶の件も知っているようだ。
その事を話すとは、言う通り本当に信頼はしているらしい。
「で、今日はどのようなご用件で? 露店で知り合いを見つけたから挨拶……なんてお人じゃないのは知ってるんよ?」
春夏冬に見上げられ、レグルスはそういえばと思い出したかのように口を開く。
「最新の二つ名持ちの情報が欲しい。あるか?」
「あと、第一階層の変化の情報も欲しいです」
「なるほど。魔物の情報は銀貨二枚、迷宮の情報は大銅貨七枚やな。値下げ交渉は聞かへんで?」
「出所は?」
「さっき丁度降りてきた探索者から買った採れたてや。レグルスはんは運がええなぁ」
他は知らないが、この街では値下げ交渉は普通のことだ。しかしレグルスは値下げ交渉することなく、懐から指定された額を渡した。
すると、春夏冬はメモを見るでもなく、まるで自身の経験談を語るかのように、すらすらと情報を出し始める。
「毎度あり。二つ名持ちは昨日はぎょうさん出たらしいわ。第一階層で――――」
彼女の情報を纏めると、第一階層で大喰らいが出口付近で確認され、探索者数名が犠牲となった。第二階層にて、色狂いが北方に出没し、探索者二人が行方不明になったそう。因みに、大喰らい、そして色狂いとは、どちらも二つ名持ちの魔物を指している。
迷宮の変化については、特筆すべき危険は無いそうだ。一部天井が下がり潰されるような罠があったらしいが、あまりにもあからさまで、かかるような馬鹿はいなかったそう。ではどうやって発見したのかというと、魔物の死骸を投げ込んだら天井が動いたのだとか。
尚、第二階層より上層の情報は無い。第三階層からは階層の広さ、魔物のレベルなどが大きく跳ね上がり、踏破できるものは少ない。最後に齎された情報は一週間も前のものだそうだ。あてにするべきではない。
「では、そろそろ行きます」
「鉄によろしくな」
「はい、言うときますわ。後、おおきにテルミニはん。辛いと思うけど、頑張ってや」
「? ……はい」
無邪気に手を振る春夏冬を尻目に、私達は迷宮の入り口へと向かう。大した距離ではない、あっという間に辿り着いた。
迷宮の入り口。四、五メートルほどの巨大なゲートの目の前に立つ。輝きを絶やさない金色のフレームに、その内に満ちる、まるで夜空のような深い藍の膜。星々のような小さな輝きが明滅する様は、まるで雲一つ無い夜空だ。
傍から見れば迷宮はただの高い塔だが、入るたびに姿を変える内部はまさに異次元と言った方がいい。入口もこのようにゲートしか存在せず、今まで幾度となく迷宮の壁に穴を開けようという試みがあったが、悉く失敗している。
つまり、我々が一階層と呼んでいる空間ですら、この中では一階かどうか分からない。そんな場所だ。
まさか、本当に神の杭だという事はあるまい。踏破すれば願いが叶うなどという根も葉もない噂もあるが、一体誰が、どのような用途でこんなものを建造したのか。皆目見当も付かない。
「それじゃ、行きましょう」
「あぁ」
私達は同時にゲートに足を踏み入れる。すると、すぐに慣れた感触が身体を襲った。
まるで、自分が一度自分ではなくなり、その後再び自分に戻るような。身体が一度分解され、再構築されるような、そんな感覚だ。
"春夏冬"と書いて"あきない"さんになります。春夏秋冬から秋が抜けているので"あきない"。もしくは"あきなし"ですね。