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迷宮のレオーネ  作者: 朽木真文
二章 淫虐に聳える
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ST35 泡沫

 テルミニはよく同じ夢を見る。

 端的に言うならそれは、暗く澱んだ空気を漂わせる場所で自身が理性を失い、時には出会った人間を残虐に喰い殺しながら彷徨っている夢だ。

 その場所でテルミニは、たった一つの衝動に突き動かされるままに遭遇した人々を殺戮している。

 どこかはよく分からない。よく知っている場所のようにも思えるし、全く知らない場所のようにも思える。

 身を焦がす衝動も見覚えの無いものだ。それはまるで憤怒のように身体に燻りをもたらし、しかし悲哀のように浸透し満ち満ちていく。どこか矛盾しつつも、仄かに彼女の冷え切った心を温める。

 分からないことに満ち満ちている。しかし、たった一つ分かることと言えば、その場所で謎の衝動を抱えながら、テルミニは獲物を探す肉食獣のようにひたすらに彷徨し続けているのだ。そう、今この瞬間も。


「――――あっ」


 鋭い爪はまるで旋風のように、首を落とす処刑人の剣のように、冷徹に、無感情に、無情に、無慈悲に振るわれる。

 悲鳴がけたたましく轟き、鮮血が空に紋様を描きながら舞い、肉塊は鈍い音を立てながら血に倒れ伏す。

 かつて人だった肉塊の手に握られていた鉄の塊が零れ落ち、甲高い音を鳴らしながら転がった。


『――――』


 返り血を浴び、その黒い皮膚に鮮紅色を纏った怪物は何やら囁いた。譫言のように小さく、しかし確かな意思が込められたその言葉は、腰を抜かし怯えながら後退りする少女に、更なる恐怖を抱かせたらしい。

 下半身に染みが広がり、やがて染み出した液体が湯気を立ち昇らせながら水溜まりを作っていく。

 異様な臭気を放つそれは徐々に、地面に広がる暗褐色と綯い交ぜになり、ミルクを入れたコーヒーのように徐々にその色を変えていく。

 ふと、広がり行くその水溜まりが、怪物の脚にも届いた。

 捻じれた爪に、硬い皮膚に、温もりが伝わっていく。


「……」


 怪物が首を傾げた。それはまるで、この世界に純然たる疑問を抱いた幼児のように、無垢な所作でその首に角度を付けたのだ。


「ィッ…………――――」


 その仕草を見て、少女の顔に浮かぶ恐怖がより一層濃度を増した。

 可憐だったろう端正な顔は歪み、目は血走り、穴と言う穴から汁を垂れ流した、見るに堪えない姿に。

 そして少女は縊られた鶏のような短い悲鳴を上げ、怪物に背を向け走り去ろうとする。

 しかし、既に腰が砕けているのだろう。

 少女は立ち上がる事すらも出来ず、しかしそれでも眼前の脅威から逃避したい思いは変わらぬようで、必死に地面を手で掻きながら這い進もうとしている。

 岩床にその可愛らしい爪が引っ掛かり、捲れ上がる。爪の破片が飛び散り、少量の血液が痕を残し、血色のいい薄桃色の指は徐々に鮮紅色へと。


「……嫌だいやだよしにたくないよおかあさんたすけてかえりたいやだやだやだなんでわたししにたくないのにこんなばしょでいやだよまだ――――」


 少女が、生への執着を本能のままに吐き出す。その声はやがて悲鳴に変わり、そして慟哭へと。

 一歩、怪物が歩みを進めた。

 重々しい足音が一つ、岩窟に反響していく。

 足音は一つには留まらない。それはまるで鼓動を刻むように、時計が時間を数えるように、零れ落ちる雫のように。着実に、堅実に、そして確実に。


「しにたくないしにたくないいやだいやだかえりたいしにたくな――――」


 少女の声が途切れた。彼女は自身の背に、怪物の脚による確かな重みを感じた故である。もしくは、絶望故とも言えるかもしれない。

 捻じれた爪が食い込み、押さえ付けられるその力で骨が軋んでいく。肉が圧縮されるような、繊維が千切れていくような音を立て、その脚は彼女の柔らかな身体に沈んでいく。


「くるし――――」


 刹那、軽快な音と共に、赤い風船が弾けた。

 内包されていた命の証たる体液が全方位に飛沫となり飛び、桃色と赤の混合物が僅かに脈動しながら転がった。

 少女によりあれ程騒がしかった昏い岩窟は再び静寂を取り戻し、ただぐちゃりと音を立て少女だったものを弄ぶ音だけが響く。


「……」


 ふと、軽い靴音が鳴る。

 それはまるで小気味いいリズムを刻むように、規則的なリズムで怪物へ向かってきていた。

 怪物が振り返り、その音の主を待つようにゆっくりと首を持ち上げる。

 その音の主は、すぐにその場所に現れた。

 童顔に嵌められたエメラルドは静かで、剥いた卵のような肌には凹凸の一つも無い。ホワイトブロンドの髪が不思議そうに揺れ、現れた少女は首を傾げる。

 しかし、怪物により無残に殺された犠牲者の姿をその翠玉に捕らえると、彼女は暗緑色のマントをはためかせ、腰に佩いていた水晶の短剣を引き抜き構えた。

 再び怪物の姿をその眼に捉え、少女は口の端を吊り上げる。


「まさか、ここで噂の君に出会えるとはね。手間が省けて僥倖と言うべきなのだろうが、少し遅れてしまったようだ」


 怪物が少女に向き直る。それを臨戦態勢と受け取ったらしい少女は、更に腰を低く落とした。

 ただ、先刻の少女があれほどまでに恐れたと言うのに、怪物の眼前に立つ少女は微塵も恐怖を感じていないようであった。

 その代わり、その翠眼に宿るのは溢れんばかりの自信だ。

 怪物が疑問を呈するように首を傾げた。少女の短剣に激しい音と共に紫電が迸る。


「さて、せめてもの弔いと行こうか。では、レディーファーストと言うことで」


 少女が妙に落ち着いた声色で零し、前に倒れるように彼女の身体が傾く。

 刹那、ブロンドが舞い……――――。

 少女は駆けていた。

 その動きに合わせるように怪物が一歩を踏み出さんと脚を持ち上げるが、それを少女は妨げるように叫ぶ。


雷光の鎖(カテナ)


 刹那、白い電流が空間を駆け怪物の脚を縛る。まるで怪物を取り巻く時間だけが切り取られたように、怪物は制止した。

 その間にも少女は流るる水の如き速度で駆け寄り、その刃を煌めかせている。

 血溜まりを避けるように大きく飛び、亡骸を踏まぬように壁を蹴り、少女が跳んだ。

 雷の鎖に縛られた怪物は動こうにも動くことは叶わず、その姿をただ指を咥えて見ている事しか出来なかった。

 世界が速度を失う。

 クリスタルの刃が怪物の姿を反射し、その歪な黄金の瞳で怪物は自身の姿を捉えた。

 それはやはり、怪物。黄ばんだ犬歯は口腔を飛び出し、その歪んだ黄金の瞳は猫のように開いた上に、光は無い。

 ふと怪物の眼に、一滴の雫が浮かんだ。何時から、何故、このような人ならざる姿になってしまったのか。

 疾うに分かる筈の無い疑問を自身に投げつけながら、突き付けられる水晶の刃を受け入れるため、怪物は瞳を閉じた。

 その罪を清算するように、罰を受け入れるように。ゆっくりと、瞼は涙を押し出し閉じられる。

 その様子に気付いた少女は、ふと緩慢とした時の中で微笑んだ。


「頑張ったね。もういいんだよ。この、私が付いている」


 囁かれた声は優しい。まるで、子をあやす母のように。

 刃が閃く。こうして夢は、いつも終わりを告げるのだ。

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