ST26 下賜
視界に二人の少女を収めた怪物は、その光景をどこか遠い瞳で見つめながら追憶していた。
「全てをあげるわ。私の手駒になるのなら」
人気の無い路地裏、鈍色の雲が空を覆い薔薇の棘のような雨が降るあの夜、鈴のように凛と鳴り響くその言葉は何故か、酷く甘美に響いた。
犯罪者と呼ばれるその男に、地上での居場所など無かった。
確かに男は幾度も法を犯し、数多の人間を苦難に陥れ、そしてその罪を償いもせず逃げおおせて来た。
元より悪の道に進みたかった訳では無い。しかし、天は既に進むべき道を決めてしまったのか、男は戻ることは出来なかった。
母親に合わせる顔が無い。路地裏に貼られた手配書に描かれた自分の顔を見るたびに、後ろめたい気分になる。
この先の人生を断ってでも罪を償う覚悟か、自尊心を棄てられる強靭な精神力をどれほど欲した事か。何度悪夢を見たか、何度血の混じった吐瀉物を見たか、何度自分の頸に刃を突き付けてそして止めたか、何度憎悪に満ちた罵声を浴びせられたか。
その思いを思い出す度に、もう遅い。このまま生きていくしか無いのだと、もう普通の人生に戻ることは出来ないのだからと諦めて、フードを目深に被り直したのだ。自分は、咎人なのだからと。
そんなある日、女が男の眼前に現れていたのだ。
全てをやる。だから手駒になれと。
「本当に……全てか?」
男は問うた。
だが、男は元よりその言葉を疑ってはいなかった。その瞳はまるで、地獄の中心に一本の蜘蛛の糸が垂れているのを見つけたように、希望を求める亡者のような光を求める瞳だった。
無責任極まりないということは分かっている。しかし、そのどん底から救われる手が伸ばされたのだとしたら、人は迷い無くその手を掴む。
名前も正体も知らない。フードで隠している素顔は、ちらりと金色の眼光が覗くだけ。何もかもが分からない怪しげな人物。しかし男には彼女の姿が、さも女神のように見えていたのかも知れない。
「えぇ。力も、富も、名誉も、そして……――――」
フードと、そして仮面で顔を隠した女は声色を妖艶に弾ませると、呆然とする男の耳に顔を近付け耳打ちした。
ちらりと、仮面の隙間から黄金の如き瞳が覗く。
「――――覚悟も……ね?」
男はそうして女の駒となった。
他の者であれば、それは救いでは無く騙りだと言うだろう。しかし渦中の男にとってそれは、紛う事無き救恤だったのだ。
振り下ろされる剣の、風を切る音で怪物のどこか遠い思考は現実に引き戻される。
まるで他人事のように感じているのは、その身体が今となっては理性とは関係無く眼前の敵を殺戮しようとしているからかもしれない。
今の怪物の動体視力ではその剣は止まって見える程に遅い。しかし、怪物に回避という理知的思考は残されていない。
粗悪な、しかしながら鍛えられた鋼鉄の刃が怪物の右腕に食い込む。
鮮血が噴き上がり、だが直後に血液は泡立ち肉体は剣すらも呑み込み再生する。
怪物は腕の剣など構いもせず、力任せに右腕を振るった。
「うわぁっ!?」
幼さの残る矮躯が軽々と浮き上がり、吹き飛ばされる。飴色の髪がひらりと舞った。
少女はそのまま少し後方へと飛ばされ、しかし地面との衝突寸前に猫のように受け身を取ることで衝撃を殺す。
直後、それを見ていたもう一人の少女が素早く怪物の懐に潜り込む。
少女の動きはさも蛇のように俊敏で、そして柔靭に地を蹴り駆けていく。
ガチャンと軽快な金属音が少女の手元で鳴り、するりと少女の手にしていた剣が槍に変形する。
土が噴き上がるような跳躍。
そして、その槍を怪物の顔面に突き刺した。
「はぁぁっ!」
隆起する黒い肉の塊を押しのけて槍が鮮紅色の華を開かせる。そして少女は追い打ちと言わんばかりに、手首と共に槍を捻った。
穢れた黒色の肉が抉れ、噴き上がる血液は量を増し、更なる大輪の華へと成長を遂げる。
「うそっ――――!?」
しかし、通常の生物なら絶命に足るその攻撃であっても、怪物は怯みもしない。
「オオオオオオオオオオオ!」
傷口を泡立たせながら地響きのような咆哮を上げ、その巨大熊を彷彿とさせる巨躯にもかかわらず、小鳥のように俊敏な動きで少女の腰の辺りを掴まんと手を伸ばす。
さも、人形遊びに興じる子供のように。
「クソっ……魂形ノ序!」
憤怒の形相で少女が叫ぶ。直後、少女の動きが明らかに変化した。
今までよりも更に早く、蔓が巻き付くようにしなやかに自身の槍を伝うと怪物の頭を蹴り跳躍する。
空気が震えるような轟音。
怪物の手が打ち鳴らされる。しかしもちろん、先程の少女はそこにはいない。
「はぁぁ!」
高く跳躍した少女は、その位置エネルギーをそのまま怪物の右腕から突き出た剣の柄に、自身の脚を叩き落とした。
少女の蹴りを受け剣は、怪物の右腕に大きな傷を作り抜け出す。
再び鮮血が吹き出すも、その華は泡立ち枯れていく。肉体が人知を超えた速度で再生しているのだ。
少女は剣を回収すると大きく飛び退き、もう一人の少女の元に寄る。再度怪物と少女たちの間合いが大きく開いた。
「大丈夫ですか!?」
少女に剣を返すと、もう一人の少女は心底不快そうな表情を浮かべる。
「無傷や。いや、反動のある技やから今のところは無傷、やな。それよりそっちは?」
「何とか受け身が取れました。しかし――――」
少女は、土から植物が生えるように頭部から槍が伸びる怪物を睨む。
怪物は白煙を上げて右腕の傷が跡形も無く消したその後、今度は槍を吞み込むように頭部の再生に取り掛かっているところであった。
「これではキリが無いですね。理性も無いみたいですし、説得も無理ですね」
「あ、元々無理でしたね」と付け足し、豊かな胸の少女はもう一人の少女から自身の剣を受け取る。しかし視線は怪物から離さない。
「せやな。おまけにあの図体で速い。持久戦は不利やな」
その言葉を聞いてか、腰に水袋を携えた少女は思案顔になり、じっと怪物を見つめる。
怪物は傷の再生に専念しているのか、一切動こうとはしていない様子だ。白煙を顔面から立ち昇らせてまるで石像かの如く動かない。しかし、治癒が完了すれば再び少女たちを殺戮するために動き出すだろう。
「逃げると言う選択肢は……」
そう言いながら少女は辺りを見回す。
逃げるが勝ちという言葉があるように、勝ちの目が薄い敵と戦うのは勇気では無く蛮勇だ。逃げという選択は決して恥ではない。
しかし当然だが、逃げたとて相手に影響が及ぶ訳ではない。
それなりの大きさの広場で、数人の男に対し複数の少女が相手をしている。
数の差はあれど少女の大半は実践の経験が浅いようで、素人の動きと何ら変わらない。その為戦況は拮抗しており、外部より介入があれば簡単にその近郊は崩れるだろう。
そう例えば、汚らしい黒色の怪物のような介入であれば尚更。
「無いですね。戦ってるのは私達だけじゃない」
「とはいえ打つ手無しなのは事実や。何か思いつかへんか?」
「え、私ですか!?」
少女は驚きながらもう一人の少女を見つめる。
しかし、すぐに冷静さを取り戻し澄んだ紺碧の瞳を怪物に向けた。
白煙は勢いを無くしており、それはすなわち怪物の再起が近いという事を示していた。
一度遠のいた死の恐怖が、再びにじり寄っている。
しかし死と隣り合わせにあることの緊張など無いかのように、少女は瞳は確かな決意を湛えていた。
「と言うなら、一つ思うことがあるんです」
そう、至る所を泥で汚した身体で自信満々に告げる少女の、海のような紺碧の瞳は徐々に黄金に染まり始めていた。
さも、怪物に救恤を与えた謎の女の如く。




