天龍剣黙示録【短編版】
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その男は雷雲を伴って現れた。
空には分厚い黒雲が垂れ込めて日差しを妨げている。雷が雲の中で唸りを上げていた。
荒れ果てた神殿があった。門前には篝火が焚かれている。
男は意に介する様子もなく門を潜った。
首から上がない女神像。棚を倒され、希少な書籍が乱雑に捨て置かれたままの書庫。金銀や宝飾類は奪い尽くされていた。
かつて本殿であっただろう場所には屋根が失われ、石畳の上に林立する石柱だけが残っている。石柱は何本かは倒れてはいるが、それでも大半が立ったままであり、旧帝国期の建築技術の確かさを証明していた。
尤もそこにいる者たちは、積み重ねられた歴史や叡智に敬意を払うような類の者ではない。赤々と燃える炎へ薪と共に稀覯本を焚べ、強奪品とおぼしき腸詰めや塩漬け肉を串に刺して炙っていた。
皆、兜こそ脱いでいるものの薄汚れた傷だらけの具足を身に帯びており、その野卑な会話の内容――戦場のちょっとした功績、勲功に見合わぬ少額な報奨への愚痴、どこの娼館がいいか、略奪した金品の捌き方、など――からも、彼らが兵士であることは知れた。焚火の数は二つ、合計10名が囲んでいた。
死体もまた転がっていた。付近の村で誘拐してきた男女数人である。慰みのために石弓の的にされ、殺されたのだ。 それだけではない。数十にも上る死体が折り重ねられ、皆腐るまで放置されていた。死体喰いの野犬や鴉が寄って来る様子はない。それは、兵らが放つ異様な気配のためだろう。
石柱に立て掛けられた軍旗の紋章は天高く吼える銀の虎。ガウデリス覇国軍の紋章である。
二人の歩哨が戻ってきた。
「随分遅かったじゃねえか。鶏とでもヤってたのかと思ったぜ」
「もっといいものを捕まえましたんで」
兵士は笑いながら、それを石畳に放り出した。
男装の美女である。金属製の軽鎧を身に着けた、長い金髪の若い女だ。腰には細身の剣が抜かれぬまま提げられていた。彼女は猿轡めいて汚れた布を噛まされ、縄で後ろ手に拘束された状態で石畳に両膝をつかされていた。
「女だてらに騎士の真似事かよ」
兵士の一人が嘲笑した。中原方面の国家では女性でも騎士位の叙勲が可能だが、その制度は少なくともガウデリスには馴染みのないものだった。
「こんな辺鄙なところで見張りを任されるたァ冗談かと思ったがよ、こんな別嬪が来るなら大歓迎だぜ」
「見てみろよ、この娘の鎧。俺は詳しいんだが、これは魔術鍛造の呪紋だぞ」
「剣も鞘も売ったら金になりそうだ」
男たちは身につけた鎧を剥いでゆく。彼女は戦場における女の扱いがどういうものか知っているようだった。女は抵抗したが、無力だった。
その時、風が吹いた。
同時に、足音が聞こえた。
兵たちは合図もなく臨戦態勢に入り、足音の続く方向を注視した。所属の定かならぬ者は全て敵。ガウデリスの軍規は明解である。
曇天で雲が強く唸った。
足音が止まる。
鉄色の髪を無造作に伸ばした男だった。長い前髪の下の顔は意外に若く端正だ。しかしその深い紫色の眼は、凄惨とも言える気配を帯びて眼の前の兵士を見据えている。
凄惨に怒り、憎悪する者の眼だった。
「何だァ貴様? 俺たちは戦闘民族ガウデリスだぞ!」
兵士の一人が怒声を上げて威嚇した。ガウデリスの民は出自をこの上なく誇りとしている。同時にその誇りは兵たちの結びつきとなり、結びつきはそのまま兵の強さとなった。
男は威嚇の前に眉根一つ動かさなかった。ただ怒れる眼で兵を睨み据えていた。
強く風が吹いた。
ボロボロの黒マントが翻る。簡素な衣服の上に硬質皮革の軽鎧。何より眼を引くのは背中に負った大剣だった。大剣は肩から斜めに掛けたベルトで背中に負っている。鞘の長さを差し引いても、身の丈近い長さの大剣である。奇妙なことに、大剣は鍔の部分で鉄鎖によって封印されていた。
男は革の篭手を嵌めた右手でおもむろに大剣の柄を握ると、鞘ごとベルトのフックから外し、片手で真っ直ぐ兵たちに向け突きつけた。挑発的な仕草だった。
鉄の地肌も露わな、無骨な鞘である。それに比べれば華奢にも見える男の腕だが、恐るべき膂力が備わっているのは明らかだろう。突きつけた鞘ごとの大剣は微動だにしていない。
「……鞘で十分だとでも言いたいのか。俺たちはガウデリス軍の――」
「どうでもいいぞ虎賊。興味があるのは死体になったお前たちだけだ」
闇に紛れ、後ろに回り込んでいた兵士が距離を詰めようとする。気配を感じたか、男は鞘ごとの大剣をその顔面に突き込んだ。尖った鐺が鼻と前歯を折り砕く。更に男は身を捻り、もう一人の兵士の側頭をその大剣で殴打し打ち倒す。
それから正面から来た兵士の肩口へ大剣を叩き込む。金属が肉を打ち、骨を砕く音がした。
飛んできた矢を男は大剣を盾にして受けた。足元に転がっていた石柱の破片を爪先で蹴り、矢の方向へ飛ばした。短い悲鳴が上がった。片目を潰されたのである。
ナイフが突き込まれた。前後同時に。それを身を捻って躱しざま、右の相手の胴を鞘ごとの大剣で薙ぎ払う。崩れ落ちるそいつの低くなった頭越しに、再度大剣を薙ぎ払われた。左側の相手の腰骨が叩き割られ、激痛のためか声すらない。
男は鞘ごとの大剣を片手で保持したまま、鐺から石畳へ落とした。音高く石畳に亀裂が入った。
五人の兵が瞬く間に地に伏し、呻き声を上げていた。恐るべき手練の業であった。これほどの技倆の持ち主ならば、素手であったとしても生身の人間を殺し得るだろう。
兵士たちはこの成り行きに唖然とした。誇り高きガウデリス兵が一人の相手にここまで一方的にやられるとは! しかし戦意は決して失われなかった。ガウデリスの矜持に懸けて、彼らはこの不埒な侵入者を必ずや八つ裂きにしなければならなかった。
「俺が相手になってやる!」
一人の兵が前に出た。子供ほどの背丈しかない小男だが、その血走った眼には殺意がみなぎっていた。篭手を嵌めた両手を大きく広げ、右手は拳に固めていた。
「――装甲!」
拳と掌が胸の前で叩きつけられる。王虎拳に於いて抱拳と呼ばれる儀礼――それは即ち、装甲のための儀式に他ならない。
小男の周囲で禍々しい炎が燃えた。幻魔炎と呼ばれる超自然の炎だ。熱を伴わぬが、生きとし生けるものの生命を害する毒の炎。それが渦を巻き、小男の姿を完全に隠してしまう。――それも僅かな時間のこと、幻魔炎が消え失せると、小男の姿はなく、代わりに鬼がいた。全身隈無く鎧をまとった鬼――
大剣の男が呟いた。
「幻魔装甲――」
これこそが大陸北方の白虎平原を住処にする部族の一つでしかなかったガウデリス族を覇国へと登らしめた力の源である。
装甲の名は〈群鬼〉。中原で最も良く知られた幻魔装甲であり、幻魔兵である。
「こうなったらよォ! もう泣いて謝ったって遅いからなァ!」
幻魔装甲はただの鎧ではない。ひとたび身にまとった者は、矢玉の雨を掻い潜り槍衾を身一つで止め、城門を無手にて破るという恐るべき幻魔兵と化す。
〈群鬼〉が石柱を掴むと、その部分が五指の形に削げた。
「そいやァッ!」
石の破片が散弾と化した。男は大剣を掲げそれを弾いた。
〈群鬼〉が目の前にいた。大剣ごと蹴られる。男の脚が石畳から離れた。8歩分後退し、男はその勢いを鞘ごとの大剣を石畳に突き立てることで殺した。
粗野な歓声が湧いた。
「殺せ、殺せ!」
「いや、殺すな! 脚だ、まずは脚をもげ!」
「手足を一本ずつだ!」
「顔を潰してやれ!」
兵士は皆、これから流されるであろう血に猛っていた。最早誰も彼女には眼もくれていない。
「声を上げるなよ。こっちも見るな」
耳元で囁かれた。手首の縄を切られる感覚もあった。男のようだ。声の主は石柱の影にいるようだった。
「一応切ったが、じっとしてろ。まぁ、すぐに終わるだろ」
彼女は口の布を捨てながら大剣の男を見、次に空を見た。唸り続ける黒雲が濃さを増していた。
男が構えた。鞘ごとの大剣を横にして、胸の前に掲げた。その眼は敵愾心に燃え、幻魔兵を睨み据えていた。
「我が名はエフェス! エフェス・ドレイク!」
右手は柄に、左手は鞘に添えられている。鍔を封じた鉄鎖が鳴動した。
「我は天龍剣総帥レガートが一子にして正統後継者! 討たれし同胞に成り代わり、血に飢えた虎の首を狩る者だ!」
砕ける鉄鎖。抜き放たれる剣。頭上高く掲げられる切先。
「――装甲!」
そして――墜ちる雷光。その場にいた者らの目が、一瞬眩む。
そこにいたのはさながら人型の鉄鱗龍と呼ぶべき姿だった。鉄の鱗にも似た鎧の地肌、その所々に紫電が小さく踊る。その右手には抜き身の剣が握られていた。剣は無骨そのものの鞘とは裏腹に、蒼く、透き通っていた。
兵士の声が止み、その顔から余裕の色が一気に消え失せていた。
男の声が彼女に告げた。
「獣神装甲――いわば、幻魔装甲の原典だ。いや、元を正せば幻魔装甲こそが獣神装甲の粗悪な模倣か」
〈鉄鱗龍〉――エフェスが剣を両手に握り、斜めに構えた。
「来い、虎賊共。試斬には丁度いい」
そして憎悪に滾る口調で告げた。刀身に紫電が走った。
「じゃア――先手貰ったァ!」
〈群鬼〉が飛び込んでくる。覇国の御家芸、王虎拳の〈双襲爪〉。その一手は初級も初級ながら人体を容易に引き裂く威力である。
並の人体ならば。
〈群鬼〉の爪が届く僅か手前、エフェスの蒼の剣が下から上に弧を描いた。ともすればゆったりとすら見える一刀だった。
その一刀で〈群鬼〉の身体が股間から頭頂まで真っ二つに斬り裂かれた。〈群鬼〉だった二つのものは、エフェスの10歩後ろで血と臓物を石畳にぶち撒けて転がった。
兵士の中で比較的装備のいい男が叫んだ。肩の徽章から、恐らくは百人長格だろう。
「貴様ら、装甲しろッ!」
曇天の下、装甲の声がそこかしこから上がり、幻魔炎が燃えて兵士を別の姿へ変えてゆく。骨を砕かれたり目を潰されて呻き声を上げていた者も、〈群鬼〉と化した途端負傷や痛みなど最初からなかったかのように立ち上がり、獰猛な視線を鉄の龍へ向けた。
百人長も幻魔炎に包まれて装甲した。炎の中から現れたその姿は、〈鉄鱗龍〉よりも一回り大きく猛悪な〈獣鬼〉である。
〈鉄鱗龍〉の眼窩に嵌め込まれた朱色の魔瞳玉に、一瞬だけ紫電が散った。
四体の〈群鬼〉が禍々しく叫びながら、〈鉄鱗龍〉に躍りかかった。
エフェスが蒼の剣を頭上にかざし、
「起龍発蕾!」
叫ぶや否や、その刀身から雷華がうねり、無数の矢のように迸った。雷の散弾である。まともにこれを浴びた〈群鬼〉4体は一度激しく痙攣し、地に落ちて動かなくなった。
彼女が固唾を呑んで見守るのへ、男が言った。
「獣神装甲の奥義は疑似魔法の発動――天龍剣の場合は龍母神ティアマトの奇跡の再現だ。幻魔兵と言えども、あれの直撃はたまったもんじゃない」
4つの死体が崩れ落ちるより疾く、エフェスは右に走っている。鎧による身体能力の強化が作用しているのだ。その姿は、生身の人間の眼には鉄色の風としか映らない。
「雷龍珠!」
エフェスの広げた左掌に球雷が灯る。その朱色の眼は百人長が装甲した〈獣鬼〉を睨んでいた。
〈獣鬼〉の強化された動体視力もそれを見ていた。舌打ちし、手近な〈群鬼〉の頭を掴んだ。
球雷が投じられる。〈獣鬼〉も〈群鬼〉を投げつける。――球雷にぶつかった〈群鬼〉は絶叫と共に炭化し果てた。
怒声高く〈獣鬼〉も走りながら、石柱を殴りつけた。一本だけではなく、二本、三本と。石柱に大きく罅が入ると、その自重も手伝って次々に倒壊していった。その勢いは凄まじく、なおかつ狡猾にもエフェスの進路や退路を断つようにも崩れて落ちてゆく。
エフェスは頭上を睨み、蒼の剣を数度揮った。石柱がバラバラに斬り刻まれ、それが宙にあるうちに隙間を縫うようにしてエフェスが跳躍する。
土煙を巻き上げながら上昇した、エフェスの脚甲が石柱の欠片を蹴る。あたかもそれは砲弾のように〈群鬼〉共へ撃ち込まれた。一体が回避、二体が頭部に大きな欠片をめり込ませて倒れた。もう一体は腹部に受けたが、即死はしなかった。
うずくまった〈群鬼〉の頚椎を、すぐ側に着地したエフェスの剣が貫く。
生き残りの〈群鬼〉たちが逃げ出してゆく。その背中へ、剣を投げた。剣は回転しながら飛び、〈群鬼〉たちの首を刎ねた。――天龍剣〈龍車輪〉。
無手になった〈鉄鱗龍〉に、〈獣鬼〉が襲いかかった。その腕には石柱が抱えられていた。大人の胴ほどもある石柱を、叩きつけた。エフェスは横に躱す。〈獣鬼〉は執拗に、何度も石柱を揮った。既に倒壊した石柱が踏み込みだけで破壊され、白煙のように粉塵が舞い上がる。エフェスは全ての攻撃を軽やかに躱し続けている。
〈獣鬼〉の石柱が横に薙ぎ払われた。一際高く、エフェスが跳躍した。その足元を石柱が通り抜けてゆく。
エフェスの手が、弧を描いて戻ってきた自剣の柄を掴んだ。天龍剣の御剣法である。
上から下に紫電が走り、〈獣鬼〉の腕が石柱と共に落ちた。
エフェスが着地し、身を低くした。
傷口から血が吹き出るより早く、〈獣鬼〉は残った左手で掴みかかった。
その左手が触れるより疾く、蒼の剣は〈獣鬼〉の心臓を刺し貫いていた。
〈獣鬼〉の口から血のような言葉が溢れた。
「……許じ……でッ」
「幻魔兵が誰かを許したことがあるのか」
言い捨てると、エフェスは剣をその胸から抜き、太い胴を薙ぎ払った。滑らかそのものの動きだった。
ずるりと上半身が落ち、二つの肉塊となった。脚は、立ったままだった。
エフェスが〈獣鬼〉の頭部を踏み潰す。胴体も、脚も、血のような液体と化し、石畳にわだかまった。
〈群鬼〉の死体も同様に液化していた。幻魔兵は死体を残さないのだ。
〈鉄鱗龍〉は残心し、最早動く敵が存在しないことを確認した。
「装甲解除」
その一言で装甲がパズルの断片のようにバラバラになった。鎧の断片がだらりと下げた蒼の剣に集まってゆくと、鞘として剣を覆い隠していた。一瞬の出来事だ。不思議なことに弾け飛んだはずの鉄鎖すら元に戻っていた。彼は鞘ごとの大剣を背中に戻した。
その視線が、彼女の付近に止まる。彼女は立ち上がったが、エフェスの興味はそこにはないようだった。
「ヴァリウス、お前か」
彼女の眼もそちらへ向く。ヴァリウスと呼ばれた男は悠然たる笑みを浮かべてエフェスに近づいた。並んでみると、エフェスよりなお長身だった。筋肉質で、一回り近く体重もあるだろう。
「ヴァリーと呼んでもいいんだぞ、エフェス」
「……お前と馴れ合うつもりはない」
エフェスは嘆息するように言うと、紫の眼を彼女に向けた。怒りは消えていたが、なお強い視線だった。
「そこの女は――大方、幻魔装甲の秘密でも探りに来たか」
エフェスに負けぬよう、彼女はその眼を睨みつけた。
「わたしはマーベル・ホリゾントです。エフェス・ドレイクと言いましたね。ここには、幻魔装甲の秘密があるのですね?」
マーベルが名乗ると、エフェスは黒マントを翻して背中を向けた。
「来い。求めるものではないだろうが、お前が見ておく必要はある」
エフェスは燃え残っている篝火を松明にしながら、何故かガウデリスの軍旗を手に執った。
地下の酒蔵の扉を開けると、明らかに酒精の匂いではない異臭が一同の鼻を衝いた。
松明が中を照らす。眼に飛び込んできたのは、数十個の人間大の繭だ。それが淡く、内側から発光していた。
マーベルは意を決して蔵の中へ入った。繭に松明を近づけると、その発光も手伝って中身がうっすらと透けて見えた。
人間だ。繭の中身を次々に検めた。溶けているものもあった。完全に人ではないものに変じているものもあった。
「酒蔵は幻魔兵の繭でいっぱい、か」
自分で口にしたくだらない諧謔に、ヴァリウスが口元を歪めた。マーベルは背筋に這い上がる寒気を感じながら言った。
「ここは……幻魔兵の巣箱、なのね?」
部屋に入ってきたエフェスが、マーベルにわかるようにそれを指差した。
「部屋の隅にあるのが〈魔殖基〉だ。あれで土地の魔力を吸い出す。そして、人間を幻魔兵に変えたりもする」
捻じくれた黒い肉の柱とも呼ぶべき代物が、蔵の片隅で、天井と床を繋ぐようにして生えていた。肉の柱は見るものの不快感を誘うように、悍ましく震えていた。マーベルは口元を抑え、懸命に吐き気をこらえた。
「あわよくば、あれの力を手に入れようとでも考えていたか? やめておけ。幻魔兵になれば、命尽きるまで覇国の奴隷となる呪いを付与される」
〈魔殖基〉の真ん中で、ぎょろりと大きな眼が剥いた。それは無礼をなじるかのように侵入者たちを睨みつけた。マーベルは一歩後退した。エフェスは前進し、その眼へガウデリスの軍旗を突き刺した。粘度の強い、緑色の液体が溢れ出した。肉の柱全体が痛みを持つ生き物のように痙攣した。
エフェスは軍旗を抜き、それで全ての繭を引き裂いて回った。液体と半ば溶けた人間の肉体が、繭の中から滑り落ちた。マーベルの身体から震えが止まらなかった。それでも見なければならないことだった。
「二人共、部屋から出な」
エフェスが繭を引き裂き終えるのとほぼ同時に、ヴァリウスが声をかけた。二人はその言葉に従った。
ヴァリウスがどこからか持ってきた灯明用の油樽の中身を、部屋全体にぶち撒けた。そこに火を点けると、凄まじい勢いで燃え上がった。
最後に、エフェスが汚れた血にまみれたガウデリス軍旗を炎の中に投げ込むのが見えた。
三人は外へ出た。蒼白な顔で煙の方向を見つめるマーベルへ、エフェスが告げた。
「マーベルと言ったな。お前は自分の眼で見たものを広めろ。中原に、こんな醜悪なものを拡散させないためにも」
頷く代わりに、マーベルは頭を下げた。
「ありがとうございました、エフェス・ドレイク――」
礼を述べるマーベルに対して、エフェスは一瞥をくれたのみで踵を返し、立ち去っていった。
声をかけることすら躊躇われるような背中を見つめていると、マーベルの記憶が甦った。
彼女が幼い頃に聞いた御伽噺。龍と契約し、その力を象った鎧をまとい、悪に立ち向かった剣士の一族があったという。その名はドレイク一族。龍脊山脈を根城とし、蒼い水晶のような剣と秘技〈天龍剣〉を継承する一族――
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……大陸北方に二つの武芸の門派あり。天龍剣と王虎拳。それぞれ龍脊山脈と白虎平原で発生した二つの流派は、相競いながらも研鑽に励み、互いに高め合っていた。
20年前――ガウデリス族が王虎拳と幻魔装甲の力により白虎平原の各部族を平定し「覇国」を称した。
そして15年前、龍脊山脈を越えるに当たって最大の障害であった天龍剣一門を策謀の限りを尽くして殺戮し、これを除いた。女子供すら例外ではなかった。
しかし生き残りはいた。数少ない門徒は総帥レガートの子息エフェスと共に逃れ、幼い彼を傅育し、教導した。
天龍剣を再興に導くべく、そして憎悪すべき虎を根絶やしにすべく。
大陸に嵐が吹き荒れようとしていた。龍と虎の吹かせる嵐であった。
今ここに龍虎争覇の幕が開けた。