Ⅵ.はじめての雨
「―――オイ。文句があんなら云えよ」
文句を云いたがっているのは寧ろそう云っている本人の方ではないか。
隣で空威張りの声を上げている素戔嗚を、流石に鬱陶しそうに横眼で見つつサナト=クラマは汗で頬に吸いつく銀髪を耳に掛けた。意見すると謂うよりも、付き合っている心の余裕が無い。
何せ公共交通機関も無く、馬も其処等を走っていないこの時代、宮崎県から島根県に到る行程は粗徒歩だ。
クラマは勿論、金星から地球へ移動するだけの手段を持つ故に宮崎‐島根間などひとっとびなのだが、素戔嗚には当り前だが楽をさせる様な手段を態態与えはしない為、長い道程を男二柱でむさ苦しくも歩んでいるという訳である。
このペースでは、中ツ国に辿り着いた頃はおろちが既に一頻蝕した後なのではないか―――
「ハハハ・・・遠慮すんなよ・・・オマエ、年齢的にも体力がもう限界だろ・・・・・・汗が全然止んねぇじゃねぇか・・・・・・」
「・・・・・・?素戔嗚、汝こそ大丈夫なりか・・・・・・?」
素戔嗚が生れたての小鹿の様な千鳥足で一本道の坂道を右往左往している。クラマの錫杖を歩行杖代りに寄り掛り乍。
クラマの汗が止らないのは、凡そ季節に即しない指先まで被う分厚い衣を何層にも着込んでいるからだ。
「暑い故・・・我、降り立ちし刻は之が形にしも寒かった也・・・・・・」
「へっ・・・この地球には四季が在んだよ・・・オマエが来た時は丁度冬が終った時期だったが、今は正反対の夏に差し掛ってんだかんな」
クラマは首許の黒地に指を入れ、風をその隙間に送りつつも理解が至らない顔をしている。
「姉貴が岩屋戸から帰って暫くはすげー眠ぃ時期が在ったろうが。アレが春だよ。その頃と較べると太陽の当りがきついと思わないか。ソレが夏って謂うんだよ。もうすぐ烈しい雨が降る様になるぜ」
ぶっきらぼうだが他者を邪慳に扱わなくなりつつある彼に概ね好評価を懐いていたクラマは、雨という言葉に意外そうな反応を示した。
「雨・・・か?」
「オイオイ“雨って何ですかー”って問いはやめて呉れよ?こんなナリしたお子ちゃまなんざ相手にしたくないぜ」
素戔嗚はキモチワル・・・という表情を体力も地に墜ちたげんなりとした顔に加える。クラマは
「心配に及ばぬ」
と云うと
「金星に四季は在らぬが、雨なれば降る也」
と、漸く親近感のあるものに出逢った様な嬉しそうな表情を見せた。素戔嗚は呆気に取られる。
そういえば、地球についてもっとよく勉強しとけよと偶に思う時があるが、素戔嗚も彼の棲む世界・金星に対する知識は殆ど無い。
「―――雨降るなれば、籠らなくてよいのか、素戔嗚?」
「―――は?」
・・・・・・・叉、星の違いに因る概念の行き違いが起っているらしい。
素戔嗚は少し金星の事が気になったが、クラマの様に素直に説明を乞う事が出来なかった。併し、今回に限っては素直になっていたが身の為だったかも知れない。
「――――」
クラマが青い空を見上げる。金星に棲んでいたこの来訪者にとって、雲の無い空を仰ぐ事さえ普通の事ではないのかも知れない。
「・・・・・・来るな」
素戔嗚は呟いた。輪郭のはっきりした雲が空を割り、もくもくとクラマや素戔嗚の立つ地上に降り懸って来た。
クラマはいつぞや月が覆い被さって来たのと同じ様な反応で、口と眼を大きく開いた侭圧倒されていた。
「んだよ。金星にもあんじゃねぇのか」
素戔嗚は地に落ち込みそうな程口角を引き下げて云った。
「金星が雲、常に晴れる事は無い也・・・故、此の様な雲が形成は初めて見ゆ」
ドンだけスゴイ環境に居たんだよオマエ!?雲の晴れない世界なんて、素戔嗚的に考えられない。否、一時的に太陽の出ない世界にこの男、したけれども。
第三の眼の事といい、棲んでいた惑星の事といい、コイツ結構苛酷な生き方してんじゃねぇか―――?
「籠らなくてよいのか?」
クラマは空を窺い乍、念を押す様にもう一度尋ねた。金星の雨はクラマが懼れる程に危ないものらしい。
「・・・・・・ココは地球だ。俺の方がよく知ってる」
素戔嗚は錫杖をクラマに突き返した。
「往くぜ。急いでんだろ。俺も早くこんな男くせー旅終らせてぇよ」
ぽつ・・・っ、と一粒クラマの頬を、透明な雨が滑り落ちた。雨の成分を解せたクラマは、安心した様に冷たさを味わった。
・・・ま、いざという時は―――
「走るぞ!」
雨足が強くなってきた。クラマと素戔嗚は奔り出す。少なくともこの時この二柱にとって、雨は畏るるに足らぬ恵みのシャワーであった。
「・・・・・・・・・」
長い黒髪を一つに纏め、襞襟に目立つ色彩の羽織を纏った女性が、森の真中に佇んでいた。空を灰色の雲が渦巻き、吹き荒ぶ風に靡く樹樹と共に横から雨粒が迫る。女性は瞑っていた切れ長の眼を開くと、弓を構え、即座に矢を引いた。
カッ!
矢が、彼女の遠く正面に立つ樹に命中する。彼女自身に向かっていた雨粒は撥ね返され、空気や幹に叩きつけられて散った。
雨雲は畏れ慄いた様に足早に彼女から遠くの方へ流れてゆき、青空に天を明け渡した。
「奇稲田!」
嗄れ声が背後から聞えてきたが、女性は驚く事も無く只ゆっくりと振り返った。対して、声の主である老婆は明かに動揺しており、声にも嗚咽が込められていた。
「・・・母さま」
「ああ奇稲田、御願いだからこの時期は外に出ないで頂戴!あなた迄居なくなって仕舞ったら、私も父さまも・・・・・・!」
老婆が堰を切った様に駆け出し、女性に抱きつく。女性は困った様に微笑んだ。
「奇稲田は大丈夫です、母さま。奇稲田は姉さま達の様に大蛇に喰われたりなどはしませぬ」
如何やらこの女性が古事記や日本書紀に出てくる奇稲田姫らしい。大和撫子の伝承とは些かイメージが違う気がしないでもないが。
奇稲田は自ら矢を放った樹までその長い脚を延すと、幹に深く刺さった矢をぐっ,と抜いた。
矢先から最も離れた端に白羽の飾られている其は、奇稲田が握ると周囲に奥拉の様なものが浮んだ。
「・・・・・・!」
「奇稲田には大蛇を倒す力があります。先もあの悍ましい雲を追い払いました」
奇稲田の母・手名椎は彼女の幼少以来、眼にした事の無かった力を目の当りにし、息を呑んだ。奇稲田が何らかの不思議な能力を具えていた事は知っていたが、事ある毎に彼女は其を行使する事に反対の姿勢を取っていた。
「目立たないのが一番だって、いつも言っているでしょ!」
「母さま。こそこそ生きていた処で力が無ければ他に遣られて仕舞います。折角ならばこの人生、逃げも隠れもせず実力をつけ、倒して仕舞った方が後の世の為にも良いと思います故」
奇稲田の勇ましさというか単純さには、手名椎も昔から心強くさせられる反面、悩みの種だ。おまけに中中の頑固者ときている。
「そんな事をしなくても、男と偽って遣り過していれば・・・・」
「母さま。母さまは言われました、大蛇を退治するのは男の役目だと。奇稲田、男に甘える心算は御座いませぬ」
奇稲田はつんと澄まして矛盾を指摘した。親心よりも何よりも、己の信念を大切にするのがこの娘である。
「男として育った以上、護られるのは奇稲田の気が済みませぬ」
! 奇稲田が妖気を感じ取り、即座に破魔矢を抜いて手名椎を己の身体に引きつけた。矢は勢いよく直進するが、止まる樹が無く遠くの背の高い草原を掠った。
「何者だ」
奇稲田が低い声で呶鳴る。手名椎が訳も解らずに脅えていると、樹樹の隙間から銀色の長い髪の男が現れた。
「―――ー?」
―――その隣に立つは、微かな妖気を纏うものの、如何にも華奢で弱弱しそうな幼い顔立ちを残す少年・・・この男の子分か―――?奇稲田は怪訝な眼で子鬼の様にツンツンした少年を見下ろす。
「あ、あなたがたは、一体―――?」
手名椎の声で奇稲田はふと我に返った。少年の数倍・数百倍もにおいのぷんぷんする男に警戒を露わにする。少年よりも遙かに人の良さそうな顔をした銀髪の男は、金糸を放射状に縫った黒い額当ての奥からのみ只ならぬ悪気を抑え切れずにいた。
「―――我等、怪しき者では無き也」
否充分怪しいが。奇稲田が男との間合を詰めていると、子鬼がバリッと二人を引き剥し
「・・・・・・オマエは女に戻りゃいーんだよ」
と、顔を伏せて呟いた。心なしか顔が赤らんでいる様な気がしなくもない。
「・・・・・・は?」
奇稲田は相手が何者か判らぬ上に意味不明な事迄捲し立てられて、素のもっと低い声となった。
併し、子鬼の方が素がひどいものであり、泣きそうな高めの声で
「遣りゃぁいーんだろ。助けて遣るよオマエを。コレでいーんだよなクラマ?」
と、叫んだ。そして
「その代り、オマエは俺の妻になれ!!」




