Ⅲ.思兼の予期とフトダマの噂
「――――・・・」
クラマ等が旅立つのを確と見届け、筑紫の高木邸へと到着した思兼は、己の机の前に着いても何をする訳でも無く、額に手を当てた侭、傍から見れば珍しく無為に長い時間を過していた。
「漢が亡び、魏・呉・蜀が亡び――――・・・」
・・・軈て、ぽつり・ぽつり・と口遊む様に取り留めも無く呟く。
彼が筑紫に居る内に、彼の母国は二度亡んだ。
彼は産れた時から筑紫に住むが、筑紫の資源を母国に持ち帰る為、どちらの国の言葉も身につけ、英才教育を受けてきた。
・・・併し、彼にはもう帰る母国は無い。
「―――やはり、あの選択は間違っていたのだろうか―――・・・」
御簾の傍に立ち、護衛的役割をしていた手力男は、弱音とも取れる思兼の発言に意外そうな顔をした。
「素戔嗚尊と護法魔王尊を中ツ国に派遣した事をか?」
「ああ―――」
珍しく煮え切らない態度の思兼に、手力男は反応に困る。併し一つだけ、理屈しか解さぬ彼でも之かなと思い当る部分は在る。
「―――宇受賣の云った事を気にしてるのか?」
「―――宇受賣?」
思兼はぱっと顔を上げた。その顔は全く、宇受賣の宇の字も考えていなかった様な顔だ。存在さえも消えていたかも知れない。
「―――宇受賣が何か云ったのか?」
思兼は額に手を当てた侭、まるであの時共に居なかったかの様に問う。手力男は彼と同じ吊り上がった目尻を呆れた様に少し下げ、
「宇受賣から忠告を受けただろう、無暗矢鱈に派遣するなと」
「ああ、その事か」
・・・・・・途中から、この男が全く宇受賣の熱意など捉えていなかった事には気づいていたが、最後まで続けた。可哀相な宇受賣。
思兼は軽く溜息を吐くと
「違う・・・併し、やはり派遣すべきではなかったやも知れぬ」
と呟き、叉考え込んで仕舞った。
「―――・・・何故だ?」
手力男が直立の侭問うた。思兼は一言、確信は無いのだが・・・と断りを入れ
「・・・・・・天照大御神の態度が気になるのだ」
・・・自信無さげに其だけ云った。思兼には、天照がクラマを金星に帰らせたくなく、かといって高天原には居させたくない様に見えたのだ。併し理屈に拘る彼には、己の直感にとんと自信が無い。
(姉莫迦とも謂える天照大御神が、何故あれ程に早く弟の派遣に了解したのだ―――?)
「アメノコヤネ」
いつもの如く、仕事をサボって廻廊でのんびり日向ぼっこをしていた天児屋命の許に、布刀玉命が走り来る。
布刀玉が走って来る姿が見られるのはとても稀少だ。
「あ。フトダマ」
布刀玉が天児屋に飛びついた。天児屋は穏かな笑みを浮べて布刀玉を包み込む。体格差といい、布刀玉の慕い方といいまるで本物のきょうだいの様だ。
布刀玉の無邪気な素直さを見る権利は常に天児屋が独占している様なものである。
「どうしたんだい、仕事は?」
「脱けて来た」
ぷ・・・と天児屋は声に出して哂った。布刀玉は抱きついた侭、天児屋を見上げ笑顔になる。幼げで女の子に寄ったその顔立ちは、其より幾分きりっと引き締った天児屋にも面影を未だ残していた。
「そんなところまで引き継がなくてもいいのに」
天児屋は苦笑を含む声で云う。
「だって詰らない者達ばかりだもの。アメノコヤネ以外に魅力的な者達なんて、僕は見た事が無い」
と、布刀玉はするすると言葉を引き継いだ。天児屋以外の者の話をする時は、顔色が暗くなり、口数が格段に減る。嫌な事があったという訳ではなく、テンションが上がらず、話す言葉が出てこない程に他者に興味が無い事を示している。
嫌な事が先ず起きない程に頓着していない。
「―――いいのかい?」
他者の事は言えないが、天児屋は口角を上げた侭引きつらせて云う。他者を敵に回しても如何とも思わぬこのコンビであるが、余りのしつこさ故に苦手としている者が・・・・・・ひとり。
「・・・いいよ。タマノオヤは外に出ていて暫くは帰って来ない」
・・・・・・やはり此奴である。天児屋は玉祖との追い駆けっこを愉しんでいる節もあるが、布刀玉にとっては只の邪魔者でしか無い。
「其より、面白い事を聞いたよ」
布刀玉は心なしか愉しそうに、天児屋の耳許に口を近づけ他の誰にも聴かれないよう、こそこそとこう囁いた。
「護法魔王尊を丁度良い場処に“追い遣った”んだって」




