Ⅱ.大国主と“白人の業”を受けし者
島根県安来市比婆山―――
大己貴は血の繋がらない兄弟・八十神から『大穴持』と名を捩られ苛められていた。齢が離れている事もあって、武骨で凛凛しい兄達とは違い優形で小柄であったので、女装させられてからかわれる事も少なくなかった。常に稚児の着る様な衣装を着せられ
「御前は何ゆえ我等の棲まうこの杜へ来たか解っておろうな。おろちの怒りを御前に引きつける為だよ」
と云われ続けた。
おろちとは、毎年決った時期に雷神を引き連れ、娘を一人ずつ喰らう8つの頭と8本の尾を持つ怪物で、目は鬼灯の様に真赤、背中には苔や木が生えて、腹は血で爛れ、8つの谷、8つの峰に跨る程に巨大であると云う。喰らう対象が娘に限定される理由が、実はおろちの性別は牝で、自分が醜い姿であるが故にうら若き少女に嫉妬するからであると、実しやかに囁かれている。
未だ不安定な状態の続く葦原中ツ国は、この時既に伝わる弥生時代の邪馬台国女王・卑弥呼の話を参考に女を王に立てようとしたがその度に娘が攫われて仕舞う為、常に苦汁を嘗めさせられていた。
その苦渋の選択として流行の兆しが見えたのが“生贄”と“婚活”である。
オオナムチは兄達の婚活に付き合わされた挙句、帰りの道中で森の中に置去りにされるという、非道な仕打を受けていた。
「兄上?・・・・・・」
併し、純粋なオオナムチは気づかない。女の様な格好をし、兄達の重い荷物を背負わされたオオナムチは、360度樹しか無い、似た様な景色を見回した。すると
「―――?」
白い物体が何やら身を震わせている・・・急いでオオナムチは駆け寄った。草原に埋れて、身の皮を裂かれた兎が泣いていた。
「―――あの兎、本当に我等が云うた治療法遣ぁた様であった」
文字通り八十は居そうな八十神の集団は、総ての肩の荷が下りて箍が緩んだ様子で、遠足の帰りの如く列を乱しがちにざわざわ、少し騒がしく住いの在る鳥上の山へ移ろうとしていた。
「真実か。無知こそ恐ろしい罪じゃ」
最初は先頭とその後ろを歩く齢の近い兄弟がこそこそと話をしていたが、其よりずっと背後を歩く彼等より少し幼い兄弟が
「あの兎に、どーな事教えたじ?」
と興味を懐いた様に尋ねる。すると恐らく長兄だろう、長兄は少少得意げに、武勇伝でも語るかの様に後ろを振り返って、先程擦れ違った毛皮の剥れた白兎の話を八十神皆にするのであった。
「さき出会うたあの兎に、私之訊かれたのじゃ。
“私淤岐嶋に居、因幡に帰ぁろうと思ぅたが、舟在らんせ海の和邇欺いて
『私と帥、どづ(どちら)に同族多いか、数えやな。出来だけ同族集めて来、向い岸まで並んでくりゃれ。私に其上踏み走りながら数えて渡う』
と言おぅた。すと和邇素直に欺かれ、私に其上踏んで渡ぁた。だども、今岸に着く時に、我ついつい云ぅてしもぅた『帥欺かれただよ』。すと最端に居た和邇に、すかり毛皮取られてしもぅた。痛い、痛い。治療法は無いねや?”」
「莫迦な兎じゃ」
八十神は悉く哂った。最後の余計な一言さえ無ければ出し抜く事が出来たのに。
彼等は常にそうである。先手を打って相手を信用させ美味しい所のみを戴いていく。確かに其自体は、至極立派な処世術だ。
婚活というのもこの葦原中ツ国が“女”王を立てようと邁進しているからで、娘をもつ家庭と顔繋ぎが出来ているのが一種の彼等の自慢であった。女性の人口が激減する中でも、誰が女王になるのかが未だ決められておらず、叉決ったという事はその女王がおろちの犠牲となる事を暗に示している。因って、どの家庭も娘を女王としたがらないのだ。
そこで、八十神はオオナムチの存在を非常に当てにしているのである。
「和邇もそげな事ー云われたら腹立つがんな」
―――そうは云うが、騙された和邇を心の底から同情はしていない。その言ノ葉こそこの後に次ぐ長兄の行為を正当化しており、更に美化までしている。
「だけん、和邇の気持ちも考えて之教えて遣ぁたのじゃ。
“海塩浴びて、風に当って伏しちょれい”
とな」
「其は・・・何だいも治らんわや」
「兄者も大概な事さっしゃんすの」
・・・要するに、和邇を騙して愉しんだ兎への罰として、長兄は間違った治療法を教えたのだ。皮を剥ぎ取られて裸となった皮膚に塩を揉むと、塩が水分を吸い皮膚が裂けて仕舞う。『傷口に塩を塗る』とはまさに、痛みが最大限に身に沁みる事に由来している。
「八上姫と縁に決りそうで、兄者だけで無ぅ、皆気分に高揚してさっしゃるがんの」
「流石に遣り過ぎだらぁ思ったども、仕方無ぅ」
「ども、之で和邇も浮ばれるだだの。兄者は和邇の味方したのじゃ」
八十神は内心で自らが権力を手に入れる日を夢見ながら、比婆山を後にした。彼等の大荷物を背負った弟がついて来ない事も気にせず。
「えぇと・・・確か・・・海水ではなく真水で身体を洗う・・・・・・!」
八十神とは対照的に、オオナムチは半ば試行錯誤的ではあったものの、経験や智慧を頼りにして必死に兎を看病した。兎は八十神に対してと同じ様に治療法を乞いただけだったのだが、オオナムチは迅速に応急手当てをして呉れた。
「もうよい!もう終りじゃぞオオナムチ!ひゃははっ♪」
オオナムチが蒲黄を取って地面に敷き散し、兎をその上に転がすが、兎はくすぐったがる許である。皮膚は大丈夫かと思いオオナムチが背中に手を回した瞬間
ボンッ!
という大きな音と共に、裸の女の子が現れた。
「!!?」
・・・・・・・・・オオナムチ、一気に顔が真紅になる。
「合格じゃ!オオナムチ」
女の子は乳白色の腕をにゅっ!と伸ばして、オオナムチの鼻先すれすれに人差し指を向けた。すごく御機嫌な御様子である。
「え・・・・・・」
オオナムチは御構い無しにずんずん近づいて来る女の子の眼の遣り場に困る。
う、兎は。怪我をしていた兎は何処に消えたのだろう。
「まぁ、そう恥かしがるなオオナムチ。ほれ、御前が適切な処置をして呉れた御蔭で・・・・・・!」
え。とても其どころではないオオナムチだったが、女の子の周囲に、蒲公英の綿毛の様な、兎の尻尾の毛の様な白くふわふわした玉が集まり始める。其等は女の子の白く瑞瑞しい素肌にくっつき、玉同士も重なり合って一枚の大きな毛皮となり、女の子を包み込んだ。
スゥ―――・・・
―――・・・女の子が纏った衣装が、真白い浄衣の装束に変化する。
「あっ」
オオナムチは気がついた、この女の子こそが毛皮を剥され苦しんでいた兎の正体である事に。女の子の腰の下迄ある銀髪の天辺から、兎の証である二本の長い耳が伸びていた。“人間の”耳らしきものは、左右の顎辺りで切った横髪に丁度よく隠れていて見えない。
“毛皮”というのは、その浄衣の事であったのか―――?
オオナムチの何の気も無い推測は斜め上をいき、後ろめたさが頂点を駆ける事となった。自分は何故、そんな想像をして仕舞ったのだろう。思わず己の顔の下半分を隠すが、女の子は
「・・・・・・何か妄想で穢してやせんや?」
と、可也斜め上の質問をしてじと眼でオオナムチを睨むのであった。
「い・・・っ、いえいえそんな・・・・・・っ!!」
「私をそういう眼で視るという事は、ヤガミ姫を穢しているのと同じじゃぞ?」
女の子は如何にも我が強そうな見開いた眼を上目にしてオオナムチに忠告する。姿形は人形だが特徴は兎其の侭で、淡紅色の瞳孔から放射状に伸びる黒眼(最早黒ではない)には血の色が透けていた。
オオナムチははっとした。そうだ、之迄人形なのに何故か存在する兎の耳やアルビノめいた体質、起伏は無いがしなやかな胴体に気を取られていたが、最初に女の子を見て感じたのは誰かに“似ている”という事であった。
誰かは判らなかったのだが―――・・・女の子がネタ晴らしをしたのでぴんとくる。
「八上姫―――・・・兄上、八十神が本日訪ねました稲羽の―――・・・」
オオナムチは紅みの引いた頬を再び微かに紅潮させる。兄と八上姫の見合いの為、オオナムチは玄関でちらと見ただけで後は襖越しの声しか聴いていないが、非常に美人で、その上声も素晴しく美しかった。
「―――併し、そなたは八上姫にしては少し幼すぎるきらいが―――?」
・・・其に、八上姫は黒髪黒眼で、もう少し穏かな顔つきをしていた様に思える。
「之はヤガミ姫其の侭じゃない。幼き日のヤガミ姫の姿を借ろうているのじゃ。私は白人。ヤガミ姫に肉体を造って貰う代りに露払している」
八上姫とは声質は同じだがやはり口調が違い、はきはきと喋る。オオナムチは情況を呑めておらず、ぽかんとした表情で聞いていた。
「其にしても御前の兄等はサイアクじゃな!私の大事な大事な狩衣一着が丸丸使えなくなった!あんなのは不合格じゃ!」
「は・はぁ・・・・・・」
オオナムチは如何にも相槌でしかない間の抜けた声で返事をした。衣が無くなったとは詰り、毛皮を剥ぎ取られたという事なのか。
「あの、私の兄上が何か―――・・・?」
「其はもう彼は人で無し。私の身を裂きよった!」
ぱちん。オオナムチは自らの頬を叩いた。白人は見透かしたかの様に白けた眼でオオナムチを視る。ならば発言を考えれば良いのに。
「御前、女子みたいな顔しとーて、結構助兵衛じゃな。やっぱり不合格にするか」
「こ・・・・・っ、之は誤解で・・・・・・!!」
オオナムチは慌てて弁解する。白人は相も変らず軽蔑の視線でオオナムチを視るが、ともすれば本当に女の子と間違われそうな顔容・衣装に視線は移っていった。
「其より、本当に兄上が然様な非道い事を―――・・・?何かの間違いでは御座りませんか」
オオナムチは八十神を信じて疑わない。その上無邪気に慕ってさえいる。女子の様な衣装を仕着せられても、山の中に独り措いて往かれても、彼にとっては大した問題ではないのかも知れない。併し其には、謀略が張り巡らされている。
「嘘など吐いて如何する。私は今回以て確めたのじゃ。御前に恃ぅたのと同じ様に彼奴等にも恃ぅてみたのじゃ、兎の姿で、毛皮取られた、治してくりゃれとな」
「そなた、本当は怪我など負っていなかったのか!?」
オオナムチはショックを受けた。騙されたと思ったのだろう。・・・この分では、八十神に利用されていると知った傷心は計り知れない。
「・・・和邇の話は嘘ではないぞ。私は和邇に身包み剥されて死んで仕舞った兎なのじゃからな。
死ぬる時、偶偶通り掛ったヤガミ姫に魂だけでも救われて、ヤガミ姫の幼き頃の容を借りる事になぁたのじゃ。和邇欺いた罪は消せぬから、白人の罪に当てられて仕舞たがな!」
“白人の罪”とは国ツ罪の一つで、嘘を吐く等した比較的軽い罪を犯した者は死んだのち、煉獄にて肌の色を白く変えさせられて仕舞う刑罰である。大抵の場合、その後黄泉へ向かう為白人の者はこの世に出てくる事は無いのだが、八上姫というのは謂うなれば素戔嗚に対するクラマの様な、罰を与えても生の世界に引き戻せる絶大な力を持った存在である様だ。
彼等彼女等の様な関係は、実は其程珍しい現象ではない。元来具え持つ霊力の強さは格差が激しく、不浄にあてられれば肉体を喰い尽される危険を抱える者も在る。そして其は、不浄に対する耐性を持たない高天原の神達には意外と有り勝ちな事なのだ。
莫大な霊力は己を喰い尽すが、訓練すらば其を形代に分配したり他者に譲渡したりする事が出来る。実は高天原の高官に於いても其を実践していたりするものだ。