ⅩⅥ.裁き
・・・思兼は俯き加減に、併し表情一つ変える事無く家長から話を聞くと、礼をして立ち上がった。蚊帳の向うで気怠そうに足を崩し、坐椅子の肘掛けに頬杖をついて口許に団扇を当てていた影は、同じく気怠そうなゆったりとした口調で、足早に去る背に呼び掛ける。
「・・・驚かぬか。心外な事実でもなかったか」
・・・思兼はぴたりと歩みを止める。
「・・・記憶の残滓は僅かにあります故。推理をすればある程度の予測はつきましょう」
真直ぐに伸ばした背筋と同じ様に抑揚の無い真直ぐな声が、がらんどうの吹き貫きの邸に虚しく響いた。
声帯の振動が冷たい空気と触れ、声自体が震えている様に聴こえる。
「その方には宇受賣と志津彦も在るよもな」
影は団扇で隠して誰にも見られる事の無い口許に笑みを含んだ。長い髪を隠す様にして結われる高木特有の髪形に、思兼と同じ鋭い眼光。彼より少し公家的な趣はあれど、その神は揺らぐ事の無い思兼神と血の繋がりを感じさせた。
「・・・詰らぬよ。その方、霊力を失って初めは些細な事で泣き、喚き、よく騙されて苛め甲斐があったというに」
ぼっ!思兼は一気に耳まで紅潮させた。挑発に乗って父神に紅い顔を見せる事はしなかったが、明かに今度は震えた声で
「狸め・・・・・・!!だから謁見なんて嫌なのだ・・・・・・!」
と不快さを露わにした。
「何か、狐」
「隠居されよ」
狸。狐。隠居されよ。何故か。
父子は顔を突き合わせる度、この様な攻防戦を一度は繰り広げる。併し、決して仲が悪いという訳ではなく、方針や舵取りの方向の違いで意見がぶつかる事こそあれ、之が二柱のコミュニケーション方法であった。
「口で未だ敵わぬその方に、家督はまだまだ譲れぬな」
・・・・・・。いつもからかわれて終りな為、思兼の方は出来る限り謁見したくなどないのだが。
「・・・・・・思兼」
・・・・・・黙って立ち去ろうとする思兼の背を、高木神が引き留める。
「―――交えるか」
高木神の声は神妙であったが、其でもどこか淡白で、案ずるという印象は見受けられなかった。だが、思兼の声は彼を上回って更にあっさりしており、然もありなんといった様に
「高木が出した不具合ならば、其を高木の者が回収するが道理でしょう」
と、云った。其が高木の、或る者の下に産れた自分の宿命だとでも云う様に。
「・・・・・・うっ・・・・・・!!」
淡島が歩を進める侭に後を追い、辿り着いた光景に、素戔嗚は思わず悲鳴を上げた。
「・・・・・・!!」
奇稲田も、顔色を蒼くして口に手を当て、強気な双眸に涙を浮べている。不可抗力的なものなのだろう。
・・・・・・クラマだけは表情を全く変えず、厳しい視線でその光景を見つめていた。
―――三者の見つめる先には、真白く血の抜かれた稚児の遺体と、一羽の白兎の姿が在った。
「ーーーっ・・・」
淡島が遂に微かな嗚咽を上げる。
「・・・大己貴」
奇稲田は口許を気持ち拭うと、親しげに声を掛け稚児の遺体に近づく。その姿を見た淡島の眼に、初めて光が宿った。
「汝、之の知り合いなのか」
「知り合いという程でもない。だが八十神を通じて彼を知り、八十神のあの性格から気掛りで偶に話をしていた。・・・・・・この子は、己が生贄となる事を知らされていなかったみたいだが」
奇稲田の凛とした声は先程の涙で湿っていた。死への恐怖を表した其は、つい先程まで狩られる対象であった彼女の、積年の不安を無意識乍ら如実に表している。淡島は奇稲田の背を、ハッとした眼をして見つめた。
奇稲田の足音に、兎が反応して顔を上げた。すると、キーッ!と甲高い鳴き声を上げて少女の姿と成り変り、稚児の身体を隠す様にして覆い被さった。
「寄るな!この・・・・外道なニンゲンめ・・・・・・!」
白髪の少女は色素の薄い淡紅色の瞳から透明な涙を止め処無く溢れさせ、頑なに此方を拒んでいた。
「女―――・・・?」
動物が二本足の生き物に変身するさまを初めて眼にする素戔嗚は、反発する事も忘れ、その姿を息を呑んで見ている。
クラマが白い髪を靡かせ、錫杖を鳴らして奇稲田の隣へ身を遣る。その動きはいつも素戔嗚が見るゆったりとした鷹揚なものではなく、とても俊敏で気魄に満ちたものであった。
「奇稲田」
クラマが荘厳な声を発する。
「退いていよ。・・・我に任せる可」
奇稲田は否応も云わされず厳かさに負け、身体が勝手に後ろへ退いた。素戔嗚の感嘆の眼と奇稲田の驚嘆の眼が合致する。
二者夫夫の視線が追う中で、クラマが少女の許へと歩み寄る。其処で素戔嗚と奇稲田が見ているものは同じとなった。
―――クラマと少女が対峙したのだ。
少女がふーふー息を荒げる。クラマは何処か少女を見知っている様な一瞥を呉れ、額に手甲を嵌めた手を当てた。
「白人が業を受けし者。下がっていよ。我が判決を邪魔立てしは業を重ぬるぞ」
その声は、少女を相手に矢鱈と冷たい響きだ。
十二因縁の頭襟を外す。第三の眼がぱっくりとクラマの額に現れ、禍禍しく不浄な空気が蠢き渦巻いて、彼の元へと集約された。
ずず・・・ずずずず・・・・
重苦しく強い風が吹き荒れる。禍に対する耐性が無い者は此処には居なかったが、素戔嗚は禍の空気に酔い、少し気分が悪くなった。禍がクラマと屍を囲む。墨で塗りたくった様な禍の合間から見ゆ天狗の面に、少女は己が死後に受けた審判を思い出した。
「魔王・・・・・・!」
クラマが印を結び、真直ぐに伸ばした二本の指を稚児の心臓に振り下ろす。印の指先から稲妻の様な光が奔り、稚児の屍を九つに裂く。肉体から溢れ出すエネルギー。悲鳴を上げる人間の身体に、少女は稚児をぐっと抱しめた。
「やめよ、魔王!こやつは・・・オオナムチは何も悪い事は遣っておらぬ!じゃから、死んで猶魂を発く様な事はやめてけれ!私と同じ業にオオナムチを進ませる事は―――!」
少女が渇いた叫びを上げる。だがその声はサナト=クラマには届いていない様に見える。
稚児に送り込まれていた気は軈て彼等の周囲に滞留し、クラマが立てた指にもう片方の手の指を絡ませ横へ滑らせると外へ一気に放出される。すると第三の眼がぼこりと額から浮き出、眼が口の如く開き、物凄い勢いで禍の気を喰らっていった。
―――闇が晴れ、森はおろちが去った許の先程と変らない空に見下ろされている静寂だった。地に根を下ろす自らとの境界もはっきりと縁取られた快晴である。
少女や素戔嗚は夢幻を見ていたかの様な錯覚に見舞われる。
「淡島」
クラマが十二因縁を額に巻きつけて邪眼を封印する。少女は呆然とした顔で、立ち上がるクラマの後ろ姿を見上げる。ゆっくりと振り返る護法魔王尊の両眼はとても穏かなもので、少女は己の犯した罪さえも赦された気がして涙腺が緩んだ。
「・・・・・・此の者、彼岸に渡るには未だ尚早也」
少女は眼を見開いた。淡島はつかつかと草履を地面に摺らせ、クラマに対し掴み懸る。息を切らし、窮した切ない表情で
「如何いう事だ!?其は―――・・・」
と乞う様に尋ねた。・・・クラマは静かな声で判決を下す。
「―――此の者は未だ子供。罪の一つも犯してはあらぬ、清浄にして極上の魂也。腐敗を齎す穢を遣せど、此が肉体に侵入ってはゆけん。我が護法魔王尊は、此が清浄な魂を、黄泉に葬送する事は出来ぬと判定した」
依って、と続ける。
「此の者の魂を此岸に戻す」